池田晶紀 INTERVIEW 前編「ニーコニッコニッコニコ」

SWITCH INTERVIEW 池田晶紀

写真 浅田政志


なんだか面白い人がいるという噂を、そこかしこで聞いていました。その人が池田晶紀さんでした。

本業は写真家だけれど、桑田佳祐だったり、さだまさしだったり、サウナだったり、釣りだったり。他にもいろいろ噂を聞いていたので、いったいどんな人なのか、そして、いつか会ってみたいと思っていました。

出会いは突然でした。去年、下田昌克さんの恐竜展のオープニングを観に沖縄に行ったのですが、そのとき池田さんと会ったのです。

スイッチ編集長、新井さんに「池田さん」と紹介されて、「ああ、この人が、あの池田さんか」と、そして、池田さんもわたしのことを知ってくれていたようで、二人で「ああぁ」となったのでした。

その後、肉を食べ、酒を飲みました。池田さん、とにかく、おしゃべりが最高に面白い。スイッチが入ったら、あっちに行って、こっちに行って、ぐるぐるまわっていきます。

はじまったら、止まらない、半分暴走気味だけど、完成度がやたらと高いおしゃべりを、思う存分堪能させていただきました。そしてたくさん笑わせていただきました。

翌日、池田さんは、クーラーボックスを持ち、釣り船に乗りに行きました。いつだってどこだって、趣味が人生、人生が趣味、そんな印象を受けた池田さんのインタビュー、というかおしゃべりを、みな様もご堪能くださいませ。
(戌井昭人・記)

「お生まれは」

「たぶん母の子宮だったようです」

「どんなところでした?」

「最初は真っ暗で、そこにわずかな光が見えてきたんです。それで、来たなーって思って、そこから出たのが最初です」

「出てきた場所は?」

「神奈川県横浜市金沢区ってところです。いまでいうと八景島シーパラダイスがあって、釣りがメジャーなところです。『釣りバカ日誌』のロケでも八景島の太田屋さんってところから船が出てます」

「でもって、産まれて1年経つと1歳になりますよね」

「そうなんです。1歳になって、2年経つと2歳」

「3年経つと3歳で、そこらへんから記憶があるのではないかと」

「ええ。でも、全くないですね」

「あらら」

「3月生まれなんですけど、3月生まれって、他の子よりちょっと成長が遅いんです。それで幼稚園の卒園式でみんな悲しくて泣いているんですけど、なんで泣いているのかわからなかった。3月生まれだからよくわかっていなくて。そんなんで幼稚園はほとんど覚えてないんです」

「じゃあ、その卒園式くらいからですか」

「はい。でも、その前の写真が残ってるので。当時を確認するのは、親が撮った写真だったんです。だから親目線の自己確認なんですね。父は写真館をやっていて、母が化粧品屋、メイクをしていました。それで、僕が子供の頃に初めてカメラを持って撮った写真を、『最初の一枚だ』なんつって飾ってくれたりしてね。思い出が大好きな家族なんですよ。もう写真だらけで、子供の頃の僕は写ることのプロでもあったんですね」

「自分の記憶というか、思い出が形になってる方が大きい」

「そうです。それは父親が写真を撮るという仕事をしていたのが大きいですね。意識してない自分を知れるという最初のツールになったのが写真です」

「なるほど」

「あれ、ちょっと写真家っぽい話になっちゃってるな、これはまずい。まずいですね」

そんなにはまずくないと思います。貴方は写真家なのです。

「じゃあ、いろいろ体験した自分の記憶になっていくのは、小学一年生くらいからですか」

「そうですね。でも、小学一年生の頃も、三月生まれなので周りよりも何か遅れているというのは絶好調で。だから先生に付けられたあだ名が『赤ちゃん』でした」

「赤ちゃん?愛くるしかったからかな」

「いえ。単純に可哀想な子だったんです。落ち着きがなくて、多動で、ぼーっとしてるといった、典型的な感じで。だから先生の席の近くに座らせられたりして、後ろの方の子が羨ましかったです。なんか自由じゃないですか、あの人たち」

「そうですね、出席番号だと渡辺とか後ろの方が、大人っぽかった気もします」

「うん。そういう時代ありますね」

「で、赤ちゃんは、どんな感じだったんですか」

「2年生で覚悟したんです」

「覚悟?」

「勉強を捨てたんです。それで笑いの方に向かったんです。給食の時間に面白いことを言って、牛乳飲んでるみんなを吹かせようとか。そういう風に笑いにシフトしたんです。ただ自分のルーツを考えてみると、ずーっと一貫してやっていることがあって、それは友達ですね」

「友達づきあい?」

「はい。それで一番、影響を受けたのは、8歳上の兄です」

「だいぶ離れてますね」

「だから、もう宇宙人ですよ。レコードで洋楽を聴いていたり、カセットのラベルとか作っていたりするのも格好良くて。それで兄に影響されて、80年代ドラマと歌謡曲を好きになります。でもって、その中でも一番影響受けたのは、サザンオールスターズとさだまさしなんです。ドラマの方は『池中玄太80キロ』です。あれは僕の父親だと思って見てましたから」

「カメラマンだ」

「そう。お父さんが出てるって感じで見てました」

「それは全部、小学校低学年頃ですか?」

「そうです」

「さだまさしも?」

「そう、ものすごく早熟なんですね、だから、同年代と話が合わないんですよ。ただ、10個上の先輩とは話が合ったりして」

「あだ名は赤ちゃんだけど、中身は赤ちゃんじゃない」

「そうなんです。小学生が『精霊流し』歌ってるんですもん。だからちょっと変わっていたかなとは思うんですけど」

「赤ちゃんは、友達とも遊んでたんですよね」

「はい、流行りのものが大好きでしたから。ファミコンは町内で2番目くらいに家にやってきました」

「それじゃあ、友達が池田さんの家に遊びにきたのでは?」

「そうです。うちは写真館と化粧品屋で、従業員さんもいたので、18時にケーキとかおやつが出るんですね。だから友達は、そのケーキを食べにも来てました。でも自分はケーキが嫌いで、友達がケーキを食べてるの見ながら、タクアン食べてました」

「タクアン?」

「そう、とにかく、そうやって友達が楽しんでるのを見てるのが好きだったんです」

「運動は?」

「みんなサッカーとかやっていて、僕もサッカーです。よく人と違うことをやりたいって人がいるじゃないですか。でも僕は、人がやってることをやりたくて、みんながサッカーやってたらサッカーだし、みんなが塾に行ったら、塾に行くといった感じです。自分の主張というのが特になくて、おもちゃも、お兄ちゃんが選んで『マサノリはこれだよね』って言われたら、『うん』といった感じで、自己主張が、まるでなかったんですね」

SWITCH INTERVIEW 池田晶紀

写真 浅田政志


そんな池田さんですが、普段の生活はどうだったのか?

「80年代はアイドル全盛期で、テレビに齧りついてました。日本中がそうでしたよね。それで90年代。平成に変わるときに中学生で、バブルが弾けて、友達が学校からいなくなっちゃった」

「いなくなった?」

「はい、あれは夜逃げですよね」

「忽然と消えた」

「そうです。そんなときに、お兄ちゃんはフリッパーズギターとか聴いてましたね。あとは、『あすなろ白書』と『夜のヒットスタジオ』。だからもう、塾なんて行けません。忙しかったなぁ。同世代はアニメだけど、ぼくはお兄ちゃんの方を向いているんですね」

「話が飛んだついでに中学校にいきましょう」

「中学は、女子が敵ではなくなって、仲良くなったりしちゃって、これが凄いなって思ったりしてました。それで僕は、小学校六年の時に生徒会長をやっていて、林間学校にお父さんが来てたんですよ」

ひとまず小学校に戻ります。

「写真を撮りに来ていたんですか?」

「そうなんです、なんならお兄ちゃんも来ちゃって」

「お兄ちゃんはなんで?」

「手伝いで。だから学校中の人たちが、俺の父ちゃんを知ってて、カメラのカメちゃんって呼ばれてました。そんなこんなで、卒業アルバムは俺だらけなんです。それで味をしめたのが、自分が前に出てウケるということなんです。それで生徒会長にまでなって。そんな小学生でした。なんというか、普段は恥ずかしいのに、モノマネしたりすれば大丈夫だと」

「生徒会長とか何かの役割を与えられたりすれば」

「はい。もう多重人格系になっていたんですね。それでモノマネで形になったのが、さだまさしです。学校の帰り道、友達に、さだまさしのトークのマネをして、延々見てもらってました」

「さだまさしのトークはラジオから?」

「『セイ!ヤング』ですよ。そこでトークを」

「中学時代に戻ると、中学時代もさだまさし?」

「はい。トークと、箒をギターにして。テープに録音して、友達に配ったりしてました。特にさだまさしのトークは言葉遣いが面白くて、中学生では、ちょっと知らない言葉とか出てくるんですよ。そんなのがまた刺激的で、それをマネして、好きな女の子にテープをあげてました」

「部活は?」

「サッカー部です。がっつりやってました」

「ポジションは?」

「ゴールキーパーなので、これも、またトークなんですよ、『右行け』『左だ』とか指示出して、相手がシュートを打ちそうになると、『ウンコ落ちてるよ!』とか『お母さん来てるよ!』とか言うんです。そうするとビビるんですよ」

トーク全開の池田さん。自分のルーツ、好きなものを振り返ると。

「全部『さ』なんですよ、サッカー、サザン、さだまさし」

「本当だ」

「だから、カラオケ行っても『さ行』しか見てないですから、それでいまはサウナだし」

「S(エス)でもありますね」

「もうSSSですよ」

喋る。スピークもS。

「とにかく、人を笑わせるのが好きで、先生のマネ、友達のマネなんかをしてました。友達で、ずっと顔を掻いている奴のマネなんかをしたりすると、彼がそれに気づいて、恥ずかしくなって、その変な癖が直ったりするんですよ。で、『池田くんのおかげで直ったよ』なんて言われたりして」

「役に立ってるんですね」

「そうなんです」

「その頃のドラマは?」

「『北の国から』です。がっつりハマってしまいました。で、田中邦衛のモノマネですね」

「多重人格に拍車が」

「そう。自分でもモノマネばかりして、もう誰だかわらずに、ずっとエラーが続いている感じですよ。一方で、流行りは無難にやってきたつもりだけど、根は変わらないんです」

「高校時代は?」

「男子校ですが、これは無しでもいいです」

「でもエスの部分、さ行の部分はブレず」

「スケートボードもやったな」

「サ行だ」

「あとはダンスですね」

「さ行ではないけど、ダンスは好きだったの?」

「小学生の頃、マイケルジャクソンがセンセーショナルでした。あと荻野目慶子。とにかくダンスが好きでした。『スリラー』の変な動きとか。それで風見しんごが出てきて『ブレイクダンス』とか言って、これがブレイクダンスっていうのか、となって」

「踊りだす」

「だから、ダンスは、面白いものという気持ちでやってたんです。でも、その後、ストリートみたいな時代になって、さらにロサンゼルスの方からヒップホップがガンガンやってきて、だんだんオシャレになって、それでやめました」

「面白いのが、格好いいになっちゃったんですね」

「そうです。それでね、今度はモノマネのオーディション番組に出たりしてました。素人モノマネ。そのとき、自分の順番の前が森進一のモノマネで、後ろが美川憲一のモノマネだったんですけど、似せるために整形してるんですよ。でも、俺にはそんな覚悟はねえって」

「池田さんは、どんなモノマネだったんですか?」

「50くらいリストを持っていったんですけど、織田無道とか、モルツのビールの栓を抜く音とか。でも相手は整形してるんですもん。ここで挫折しました。俺にモノマネの覚悟はない、整形までできないと、と。自分は、本当は赤面症で、今まではそれを隠すため、防御するために、いろいろな人間になってたんですけど、その人のまんまになっちゃうのはどうなんだと。それで挫折。高校一年生のときです」

後編へ続く