串田和美 INTERVIEW 後編「『牟礼』の奇妙な人たちへ」

SWITCH INTERVIEW ―― 串田和美「『牟礼』の奇妙な人たちへ」 ~後編~

写真 浅田政志

前編はこちら

『泥棒』
「あとね、泥棒って人がいてた」

「泥棒?」

「見た目がいかにも泥棒、三船敏郎と原田芳雄を混ぜたような人で」

「格好いいですね」

「そうなんだよ。渋い顔して、髪の毛も眉毛も濃くて、こげ茶のとっくりセーター着てて、兵隊ズボン、地下足袋を履いてるんだ。泥棒は、お母さんと一緒に住んでいて、お母さんは小さい人で、いつも『すいません、すいません』と謝りながら歩いてたから、やっぱ泥棒の母さんだから謝ってんだと、子供は勝手なこと言ってた。原っぱの真ん中にバラックみたいなのがあって、そこが泥棒の家なんだ。あるとき、子供達で泥棒の家を探検しようということになって」

「子供は暴走しまくりますね」

「ほふく前進して原っぱを進んでね。それで泥棒の家を覗いたんだ。ドアの隙間から。そうしたら、マリア像があって、光が部屋に差し込んでいて、その光が像に当たってていた」

「神々しい」

「びっくりしてさ、泥棒の家に後光が差すようなものがあるんだ。それでみんな黙ってしまって、なにも喋らず帰りました。そこで泥棒という概念が消されたんだけど、どうしても次に当てはまるものがない」

「泥棒は、見た目だけだったと」

「そう。泥棒は悪い奴じゃなかったという概念」

「当たり前の道徳観が揺らぐというか、和らいだというか」

「そうなんだ。それでそのとき住んでいた家には、玄関の脇に孫一の書斎があって、そこに、本当の泥棒が入ったことがあるんだ。その泥棒は、そっと静かに入ろうとして、窓枠のパテを外して、ガラスを外して、地面に置いて、鍵を開けて入ったらしんだけど、本だらけで盗むものがない。そこで万年筆だけ盗んでいったんだ。でも昔の物書きは、何年もかけて自分の万年筆のペン先を育てるから、『あれじゃなきゃ。やっと馴染んだのに』と悔しがっていた」

「そうですよね」

「あと残念だったのが、外したガラス窓を、外に出るとき、踏んだらしく、割れてたんだ。それを悔しがってたな」

「せっかく綺麗に外したガラスだったのに」

「そうなんだ。子供ながらに、変なこと気にしてるなと思ったけど。あとはね、足跡があって、そこには地下足袋みたないのがあったんだ」

「泥棒は、あの泥棒かも」

「そう、ぼくは、あの人なんじゃないかなと思ったんだ。でも言わなかった。言えなかった」

「マリア様を見てるし、概念も揺らいでたから?」

「そうなんだ。そんな記憶があります」

『宝くじに当たった家の子供』
「宝くじに当たった家があってね、そしたら、その子供が、白いセーターを着て、コールテンのジャケット着て、これ見よがしに歩いてたな」

『向かいの家のセロ弾き』
「向かいに住んでたのは、宮内庁に勤めていた人で、あるとき菊の紋の付いた馬車が来て驚いた。その家にはセロを弾く人がいて、離れの小屋で、いつも弾いてたんだ。杉の皮が張ってあるような小屋で、そこを覗きに行ったんだ」

「また覗きだ」

「そう、子供だから、すぐ覗くの。そうしたら裸の女の人の背中があった」

「あら!」

「いま思うと、マン・レイの写真みたいで、見ちゃいけない、大人の世界を見てしまった」

『絵描きの真垣さん』
「真垣さんという絵描きは、よくうちに遊びにいきてて、フルートはじめましたと言って、吹いてくれるんだけど、息の音しか聞こえない。『シュー、パッポ、ヒャー』って。本人は、吹いてるつもりなんだけど。あと真垣さんの家に、お風呂ができたから、遊びに来てくださいと言われて、父と行ったら、『そこの庭にお風呂沸いてますから、あったまってますよ』って、そしたらドラム缶の風呂あってね、僕は孫一と入ったんだけど、足のところに何かあって、『なにかありますけど?』って訊いたら、『それ洗濯物だから踏んどいてください』って」

「なんというか」

「でね、僕は、その家に弟と、絵を習いに行くようになったんだ。そうしたらそこに裸の女の人がいて、みんなで描いてるんです」

「子供も混じって?」

「僕たちは、目の前に果物を置かれて『これを描きなさい』と」

「でも、向こうには、裸の女の人が」

「そうなんだ。それで、真垣さんは、『綺麗なおっぱいだな!』とか言ってるんですよ」

「奔放なおじさんですね」

「でね、通っていうちに、あるときから同い年くらいの女の子が絵を習いに来たんだ。可愛い子でね。でも、その女の子と裸の女の人がいるというのが、どうにも落ち着かなくて。その子が来たら、僕は耐えられなくなってきて、行かなくなっちゃった」

牟礼時代の濃い人たちは、まだまだいるそうで、今度じっくりお話を聞かせていただきたいです。では、終わりがあるので、次に行ってみましょう。

「牟礼はいつまで?」

「中学の終わりくらいまでです」

「中学の頃は、どんなことしてましたか?」

「山登りに連れていかれて、それからは、ほとんど山登り。三年の頃は、山岳部のキャプテンになって、冬にも登るようになった。その頃に、家の前の細い道が広くなるので、工事がはじまるということで、それで引っ越しをしたんだね。結局工事はなかったんだけど。それで小金井に山小屋みたいな家を建てて引っ越しました」

「串田さんは、そこには、どのくらいまでいたんですか」

「高校生から、俳優座養成所、文学座に行って、自由劇場を作るまで、二十代の中頃までいました」

SWITCH INTERVIEW ―― 串田和美「『牟礼』の奇妙な人たちへ」 ~後編~

写真 浅田政志

「芝居への思いが芽生えたのは?」

「中学の新入生歓迎で、お芝居をやってたんです。『瓜子姫とあまんじゃく』っていうもので、観ていたら、ヤジ飛ばす奴とかいて、『つまらねえぞ、やめちゃえ』ととにかくひどくて、しまいには、そいつが舞台に上がって、先生が出てきて、揉めてるの。でも、ちょっと待てよと思ったら、その先生も子供だった。それも全部お芝居だったことに気づいて、すげえなと。芝居はこんなことができるんだと思ったんです。世界をひっくり返すことができるんだと。それで一緒に観ていた友達と演劇部の部室に行ったんです」

「いよいよですね」

「でも、誰もいなかったんだ。そしたら机にドーランがあってね、これで顔を塗るんだと、蓋を開けたりしてたら、国語の先生がやってきて、『そのニオイ嗅いだらやめられないよ』って言ってニヤッと笑ったんです。『えー、嗅いじゃった、どうしよう』って。そこから演劇をはじめたんです。それでね、僕が観ていた芝居は、瓜子姫が長山藍子さん、ヤジを飛ばしたのが山本圭だったんです」

「はじまりは、ニオイ。子供の頃の芝居小屋の、オニギリの海苔やムシロの匂いもありましたね」

「それはニオイいというしかないものがあるんだ。全体を捉えるニオイ、未来を感じたり、過去を感じたりするニオイ」

「ドーランは、具体的にはどんなニオイだったんですか」

「桃山というメーカーので、椿油が混じっていたんだ。あまり良いニオイではなかったけど」

「そして、『そのニオイ嗅いだらやめられないよ』と」

「その先生は松田先生といって、文化祭になると、先生なのに白塗りして、パントマイムとかやっている。民芸の研究生とかまでいったらしくて、だから余計に、やめられないよっていうのがあったんだね」

「それからは山と演劇」

「いろいろ掛け持ちしてました、山に登る体力をつけるために、サッカー部に入ったり」

「山はどんなところが良かったんですか?」

「山って、一人で行くと、誰にも見せない自分がいるんです。それで、一人のときって、実はキチンとするというか」

「キチンと丁寧に?」

「そう。山の上って昼飯食うのにも、あの岩の上にしようとか考える自分がいて、外から、自分を考えるんです」

「なるほど」

「それでね、これは何だろうなと思って、なんというか、自分のために見せるお洒落というか、気取って笛なんか吹いたりしてね。客がいないお洒落」

「一方で、芝居は人に見せるお洒落」

「そう。極端な自分がいる。だから芝居を作っていても、全部わからなくてもいいや、という気持ちがある。わかりにくいというわけではなくてね」

「一人オシャレの瞬間が。高校を卒業してからは?」

「僕は、成績も悪くてね、推薦で大学に行けなかったの」

「串田さんは成蹊ですよね」

「はい」

「成蹊は下から上に勝手に上がって行くイメージがありますけど」

「だから、相当勉強やってなかったんだね」

「演劇と山」

「それに僕は、何度も下の学年に落ちそうになってたんだ。でも年子の弟がいたから、落ちたら一緒になってしまう。それだけは嫌だった。書道部の奴なんか、『ずっと字を書いてたら落ちたんで、四年います!』とか言ってたけど」

「串田さんは、絶対落ちられない」

「そう。でね、秋の終わりに『大学には行けないよ』と言われて、そこから必死に勉強するんです。しかも、冬にやろうとしていた芝居が、流感がはやっちゃってできなくなったんです。『終電車脱線す』という椎名麟三の作品で、電車が脱線して帰れなくなった人たちのエゴが出たりする話で、紙に電車を描いて、バリバリ破いてそこから転げ落ちるとかアイデアも出してたんだ」

「でも、それが中止になって、勉強を」

「そう、そこで受験勉強をするんですけど、二月の早稲田は落ちて、一カ月後、日芸を受けて入ったんだけど、その頃の日芸は何もなくて、一年でやめて、俳優座に入ったんです。そこでいろんな人と知り合って、いろいろ作りたいと思い始めた。そこで自分たちで劇団を作ろうと、六本木の建設中だった地下鉄の駅で話したんだ」

「それで自由劇場が?」

「でもね、まだ自分たちは力が足りない、次の人たちが卒業したら始めようと。そこで、僕は、その間に文学座に入った」

「そうなんですか」

「やめないですよね、って言われたんだけど」

「そうか、分裂騒動とかあったから」

「そうなんだ、でも一年でくらいでやめてしまって。文学座のみんなには可愛がってもらったし、良い思い出なんだけど」

「やっぱり、自分たちではじめると」

「そう。そこで自由劇場を作るんだ」

串田さんは、「ニオイというのは理屈がない。理屈があるのは、説得しなくちゃならない理由があるからなんだ。そして理屈が揃うと争い、戦争になったりする。だったら理屈がない方が正しいように思える。とにかく、自分を一番動かすものは、理由がないんだ」と最後に話してくれました。

わたしはこの言葉を聞いて、十五年前に観た、串田さんの「ゴドーを待ちながら」を思い出しました。

そして、串田さんの話してくれた牟礼の人たちのこと思うのでした。あの人たちも、理屈も理由もなく、そこに存在していたのでしょう。是非とも今度、もっと牟礼の人たちの話を聞かせてください。

串田和美 1942年八月六日生まれ、演出家 俳優。父は哲学者串田孫一、祖父は三菱銀行初代会長の串田万蔵。劇団文学座を経て1966年吉田日出子らとともに自由劇場結成。以降コクーン歌舞伎、平成中村座で中村勘三郎と数々の名舞台を演出、2003年まつもと市民芸術館館長・芸術監督に就任、現在に至る

戌井昭人 1971年東京生まれ 作家、パフォーマンス集団「鉄割アルバトロスケット」の旗揚げに参加、脚本を担当。『鮒のためいき』で小説家デビュー、2013年『すっぽん心中』で第四十回川端康成文学賞、16年『のろい男 俳優・亀岡拓次』で第三十八回野間文芸新人賞を受賞。最新刊は『ゼンマイ』

前編はこちら


操上和美 後編「言えなかった思いを」

操上和美 前編「言えなかった思いを」

山下敦弘 後編「パンチパーマの親父」

山下敦弘 前編「パンチパーマの親父」

伊藤まさこ 後編「清々しく気持ちいいこと全部」

伊藤まさこ 前編「清々しく気持ちいいこと全部」

鶴田真由 後編「この世は、霧に映写された映像みたい」

鶴田真由 前編「この世は、霧に映写された映像みたい」

與那城美和 後編「遥かなる古謡への想い」

與那城美和 前編「遥かなる古謡への想い」

多田玲子 後編「チュンチュンチュン、ジーコロコロ」

多田玲子 前編「チュンチュンチュン、ジーコロコロ」

大竹聡 後編「たんたんと今日もどこかの街で」

大竹聡 前編「たんたんと今日もどこかの街で」

池田晶紀 後編「ニーコニッコニッコニコ」

池田晶紀 前編「ニーコニッコニッコニコ」

大谷幸生 後編「花で笑顔を飾る」

大谷幸生 前編「花で笑顔を飾る」

冨永昌敬 後編「ダイナマイト心中」

冨永昌敬 前編「ダイナマイト心中」

優河 後編「抹茶、オレオクッキー、ラズベリー」

優河 前編「抹茶、オレオクッキー、ラズベリー」

串田和美 後編「『牟礼』の奇妙な人たちへ」

串田和美 前編「『牟礼』の奇妙な人たちへ」

ユースケ・サンタマリア 後編「一年坊主、二年角刈り、三年自由」

ユースケ・サンタマリア 前編「一年坊主、二年角刈り、三年自由」

垂見健吾 後編「南方のタルケンさん」

垂見健吾 前編「南方のタルケンさん」

ひがしちか 後編「全部東京でつくられとるばい!」

ひがしちか 前編「全部東京でつくられとるばい!」

高田聖子 後編「手づかみが好きです」

高田聖子 前編「手づかみが好きです」