柴田元幸[バナナ日和 vol. 11]神はいちおういるらしいが……

 毎月、猿が仲間に「ここにバナナがあるぞー」と知らせるみたいな感じに、英語で書かれた本について書きます。新刊には限定せず、とにかくまだ翻訳のない、面白い本を紹介できればと。

今月の本
Aleksandar Hemon, The World and All That It Holds (2023, MCD / Farrar, Straus and Giroux)
Aleksandar Hemon, The World and All That It Holds (2023, MCD / Farrar, Straus and Giroux)

 アレクサンダル・ヘモン。ボスニアでそこそこに知られた書き手であり、ミュージシャンだったのが、1992年、文化交流プログラムでアメリカを訪れ、そろそろ帰国というところでサラエボが包囲されて帰れなくなり、仕方なくアメリカに住みついて、英語を学び、3年後の1995年には文芸誌に作品を発表しはじめていた。2000年、そういう奇異な経緯の末に刊行された最初の作品集The Question of Brunoを刊行し、東欧にも帰れずアメリカにも安住できない精神が見え隠れする多種多様な物語で読者に強い感銘を与えた(邦訳『ブルーノの問題』はようやく2023年10月末、書肆侃侃房から刊行される。訳者は秋草俊一郎と柴田)。
 以来ヘモンは、小説6冊、ノンフィクション2冊を刊行し、映画『マトリックス レザレクションズ』脚本の共同執筆者ともなり、北アメリカの文壇に独自の地位を確保している。本書『世界と、世界がかかえるすべて』は今年発表されたヘモンの最新作である。
 むろん第一作『ブルーノの問題』から素晴らしい書き手だったわけだが、タイトルからしておそろしく野心的であることが窺える今回の長篇は、とにかくその大胆さ、スケールの大きさに感嘆するしかない。ひとつの時空の出来事を語るにしても、つねに歴史全体が意識されているかのような奥行きが感じられる。

Only the Holy One knows what the smell of the world was right after the Creation, but this must be what it smells like right at its end, this odor of everything being finally undone: deep-grave clay, disintegrating socks, dead rodents, shit buckets, sickness, blood, men without home and water, the rich stench of the shallow trench. Pinto kept fidgeting and turning, each motion making him more restless.

 聖なるものだけが天地創造直後の世界の臭いがいかなるものだったかを知る。が、これは世界のまさに終わりの臭いであるにちがいない——この、すべてがついに崩壊していく臭気は。深い墓の土、朽ちかけた靴下、死んだげっ類、大便バケツ、病、血、家も水もない男たち、浅い塹壕の豊かな悪臭。ピントは何度もそわそわ体を動かし、動くたびにますます落ち着かなくなった。

 これは歴史小説であり、幻想小説であり、幽霊譚であり、ゲイ小説でありラブストーリーである。生と死の境目が曖昧になることもこの作品は恐れない。この小説にあって生とは死がたまたままだ訪れていないだけの事態にすぎないし、死者がしばしば生者に語りかけ、時に生者を救ったりもする。あるいはまた、ドイツ語、ボスニア語、スパニョル語(ボスニア語が交じった私的スペイン語)などが英訳なしで提示されたりもする——あたかも、読者だけが世界をすべて透明に見通す特権を享受するのは誤りだと言いたげに。
 主人公のラファエル・ピントはウィーンで医学を学び、故郷サラエボに戻って小さな薬局を経営する男だったが、やがて第一次世界大戦の混沌の只中に放り込まれ、戦地で理想の男性に出会い、戦争の地獄絵と愛の楽園とが交互に入れ替わり時に併存する日々を生きる。ピントはやがて、歴史の荒波に揉まれて大きな移動を余儀なくされ(ガリチア、タシケント、ウズベキスタン、タクラマカン砂漠……)、自分の子ではない幼い女の子を連れて、太平洋戦争前夜の上海に行きつく。
 世界大戦から世界大戦までが描かれるわけだが(そしてエピローグでは21世紀のエルサレムに話は飛ぶ)、主人公ピントが訪れるそれぞれの地域の苛酷な状況を語ったり、それぞれの戦争の個別の具体的細部を描くことがこの小説の眼目ではない。語られる男と男の愛、血のつながりのない父と娘の愛は美しいが、物語はそこに焦点を結びはしない。デビュー作『ブルーノの問題』ではサラエボの悲惨が描かれ、テレビを通してそれを見るしかない故郷喪失者の生きるアメリカが描かれ、2つの時空に焦点が当てられたが、この小説では、どこであれいつであれ、秩序も摂理もありはしない(あったとしてもロクなものではない)世界に人が翻弄されて生きている感覚が伝わってくる。神が不在だとは言わない。ちゃんと神は遍在するかもしれない。が、遍在する神はとても適当なのだ。

Sahar added another handful of dried sheep turds to the fire and lifted the lid on the pots to see if the water was boiling. At this altitude, the water should boil fast, but just about everything was wrong, and who knew if the laws of the world still held up. Everyone believes the sun will rise tomorrow, but no one really knows. The Lord keeps creating the worlds and destroying them without regard for our plans and schedules. You cannot fathom my rules. You go to sleep in one world, wake up in another. It has happened before, it will happen again. Pinto needed to cut off half of Moser’s toes, maybe even his leg, to keep him alive in case the sun rose tomorrow, and the day after, and the day after that. Even though it could all be in vain anyway.

 サハルはもうひとつかみ、乾いた羊糞を火にくべ、湯は沸いたかと鍋の蓋を持ち上げてみた。この高度では湯が沸くのも早いはずだが、もうほとんどすべてのものが変になってしまっていて、世界の法則がいまだ有効かどうかもよくわからない。明日も太陽が昇るものと誰もが信じているが、本当に知る者は一人もいない。主はもろもろの世界を創世しては破壊し、人間の計画や予定などには目もくれない。お前たちに私の掟は推し量れぬ。ひとつの世界で眠りに就き、別の世界で目覚めるのだ。これまでもそうだったし、これからもそうであろう。ピントはモーザーの足指の半分を、下手をすると片脚まるごと切断する必要があった——明日も、その次の日も、そのまた次の日も太陽が昇る場合に備えて彼を生かしておくために。もっとも、すべてはどのみち無駄かもしれないが。

 格言的な物言いに満ちたこの小説で、たとえば語り手はある箇所で“A wise man spent his life searching for a way to live without perishing, and just as he found it, he perished”(ある賢者が生涯を費やし、死去することなく生きるすべを探し、見つけたとたんに死去した)と述べ、別の箇所では“Nasrudin Hodža had taught his donkey to live without food, and just as it learned, it died”(ナスルディン・ホジャ[トルコ民話中の人物]は食べずに生きるようロバを仕込んだが、ロバはそれを学んだとたんに死んだ)と述べている。賢者に起きたことと、飢えたロバに起きたことを語るセンテンスが同じ構造になっているのは偶然ではない。賢い者も愚かな者も、何かを求めてあがいて生涯を送るが、「すべてはどのみち無駄かもしれない」のだ(もっとも、そうではないかもしれないが)。

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 第一次世界大戦がフェルディナント大公の暗殺(いわゆる「サラエボ事件」)とともに始まったことはよく知られているが、ヘモンは『ブルーノの問題』に収められた小品「アコーディオン」で、その暗殺現場に、アコーディオンを持った一人の田舎者を印象的な形で立ち会わせている。そして今回の『世界と、世界がかかえているすべて』では、同じ男がやはりアコーディオンを持って登場し、もっと大きな役割を果たすことになる——ほとんどこの男が世界の歴史を変えたと言ってもいいくらいなのだ。人間は歴史に翻弄されるが、歴史は時に人間に翻弄される、と言わんばかりに。

 

最新情報

〈刊行〉

MONKEY31号「読書」発売中。

MONKEY英語版第4号「MUSIC」発売中。

『アメリカン・マスターピース 準古典篇』発売中。

アレクサンダル・ヘモン『ブルーノの問題』秋草俊一郎と共訳 書肆侃侃房 10月30日刊行予定。

〈イベント〉

10月20日(金)2:30-4pm イン・ザ・メイキング―翻訳・創作の出来るまで 柴田元幸×きたむらさとし講演会 @神戸市外国語大学 無料ライブ配信あり(申込不要)
視聴はこちら

10月29日(日)7-8pm 「いま、これ訳してます」part 42
オンライン朗読会 手紙社主催
詳細はこちら

11月3日(金)2pm- MONKEY英語版4号 “MUSIC” 刊行記念オンライントーク
詳細はこちら

11月4日(土) 2:40-5:25pm 日本英語学会シンポジウム「語を味わい尽くす 『多面的な理解』の実践」@東京大学駒場キャンパス+オンライン(オンライン参加は無料・要事前登録)鈴木亨・堀田隆一・関山健治・平沢慎也・柴田

11月8日(水) 7:30-9pm アレクサンダル・ヘモン『ブルーノの問題』刊行記念トーク+朗読 秋草俊一郎・柴田 @twililight(三軒茶屋駅徒歩5分) 配信あり
詳細はこちら

11月22日(水)7:30-9pm 秋の夜長の朗読会 @カフェPassage bis! 会場満員につき配信のみ
詳細はこちら

12月9日(土)11am-5pm 第2回梅屋敷ブックフェスタ——海外文学翻訳家が集う本のイベント 宇野和美(スペイン語)・岸本佐知子(英語)・木下眞穂(ポルトガル語)・枇谷玲子(北欧語)・古川綾子(韓国語)・柴田(英語) @仙六屋(京急梅屋敷駅より徒歩30秒)
詳細はこちら

〈配信〉

コロナ時代の銀河 朗読劇「銀河鉄道の夜」 河合宏樹・古川日出男・管啓次郎・小島ケイタニーラブ・北村恵・柴田

《新日本フィル》朗読と音楽 ダイベック「ヴィヴァルディ」 朗読:柴田 演奏:深谷まり&ビルマン聡平

ハラペーニョ「二本のマッチ」朗読音楽映像 ロバート・ルイス・スティーヴンソン「二本のマッチ」/ハラペーニョ=朝岡英輔・伊藤豊・きたしまたくや・小島ケイタニーラブ・柴田

MONKEY vol. 31
特集 読書
1,320円(税込)


WEB特典:
ISBN:9784884186234
2023年10月15日刊行