終わりからの始まり
それは私の四十代の終わりの頃のことだった。
私が書いた『深夜特急』という作品を映像化したいという話が持ち込まれた。
いや、それ以前にもテレビや映画の関係者からいくつも話はあったのだが、どれも途中で立ち消えとなっていた。
なにしろ、私の二十代半ばのときの旅の話である。時間がだいぶたっている。しかも、その旅というのが、香港からロンドンまでという長大なものである。映像化には時間も金もかかるであろうことは歴然としていた。しかも、それは小説ではない。事実を書き連ねたノンフィクションの紀行文だ。終わってしまっている旅をどのように映像化するか。その具体的なところで、皆、頭をぶつけてしまい、撤退を余儀なくさせられていたようだった。
ところが、そうしたひとりだろうと思っていた中に、粘り強く計画を練りつづけ、ついに実現にまで持ち込んだ人物が現れた。
当時、赤坂に、かつてTBSのディレクターだった久世光彦氏が社長を務める「カノックス」というテレビ番組制作会社があった。そのプロデューサーである小野鉄二郎氏が、テレビ局の創立何十周年かの記念作品として、三部作を三年がかりで放送していくという壮大な案を通してしまったのだ。
主人公を誰に演じてもらうかが最大の問題だったらしいが、それも大沢たかおという俳優に決まったことで、制作のスピードが一気に加速した。
私は、自分の作品がテレビや映画やラジオなどの原作に用いられる場合、基本的なことが了解できれば、あとはすべて制作者側に委ねるという方針をとっていた。
文章による作品と、映像、あるいは音声による作品とは、根本的な違いがある。にもかかわらず、原作者という特権的な立場からあれこれ口を挟むことを潔しとしないところがあったのだ。
この『深夜特急』も、映像化のオーケーを出して以後は、「お好きなように」と制作サイドと距離を取りつづけていた。
だが、いよいよシナリオが完成し、撮影チームが日本を離れるという直前に、小野氏からスタッフとの顔合わせだけでもしてほしいと頼まれた。
それくらいはいいだろうと、赤坂の「カノックス」の事務所を訪れた。
私はその事務所で主演の大沢たかおさんと初めて会った。
とはいえ、そこでは主として久世さんと共通の知人の話をしていたので、大沢さんとはあまり言葉をかわさなかった。しかし、近くのワインレストランで催すという「壮行会」に付き合うことになり、事務所からなんとなく大沢さんと肩を並べて歩くことになった。
小野氏から「主人公は沢木さんのように背の高い俳優に演じてもらうつもりだ」と聞かされていた。そのため、決定までいささか難航したとも聞いていた。レストランに向かって一緒に歩いた大沢さんは、百八十センチ近い私より拳ひとつくらい背が高い。なるほど、これが決め手だったのだなと納得した。
その晩は、撮影チームのロンドンまでの長い旅の無事を祈っての会だったが、私には何の義務も負担もないということもあり、注がれるワインをただ飲んでいるだけでいいという、極めて気楽な酒席だった。
宴の途中、レストランの店主が百年も前のものだというポルトワインを出してくれたりしたこともあり、それによっていくらか気分が昂揚してしまったということもあったのか、最後に私はこんなことを口走っていた。
「もし、ロンドンにゴールインできそうになったら、僕も出迎えに向かうので、そこでみんなで祝杯をあげましょう」
そうは言いつつ、私は、なんとなく、撮影チームはそこまでたどり着けないのではないかと思っていたような気もする。
確かに、大沢さんは長身でハンサムだが、果たして何年もかけて長い旅をしながら撮影を重ねていくという苛酷さに耐え得るだろうかと懸念させるような、一種のひ弱さが感じられなくもなかったからだ。
ところが。
その作品は、原作の『深夜特急』に沿った挿話をフィクションとして作り込む部分と、大沢さんが実際に旅をするドキュメンタリーの要素が混在する、面白い構造のものになっており、第一作が放送されると、放送関係のいろいろな賞を貰うことになる話題作となった。
翌年、第二作が放送され、さらにその翌年、撮影チームは第三作のために最後の旅に出た。
そして、五月のある日、その撮影チームから、スペインとポルトガルでの撮影を終え、あとはロンドンでの撮影を残すだけになったという連絡が入った。
武士に二言はないとかいう。私は武士なんかではなかったけれど、約束は守らなくてはならない。
そこで、私は急いで締め切りのあるいくつかの仕事を片付けると、急ぎロンドンに向かうことにした。
待ち合わせの場所はロンドンの電話局だった。そこで出迎えた私は、大沢さんをはじめとする撮影チームとの再会を祝した。
実は、撮影チームは、その電話局前で、作者である私の、ほんの一瞬の特別出演、いわゆるカメオ出演を目論んでいたらしい。
ディレクターから、大沢さんが電話局に入るところで、そこを出てくる私とすれ違うシーンを撮らせてもらえないかという申し出を受けたのだ。
カメオ出演とは酔狂なことだが、そもそもロンドンまで祝杯をあげにいくということ自体が酔狂な振る舞いなのだ。酔狂ついでにそのくらいのことはしてもいいかもしれない、という気になった。
二度ほど大沢さんとさりげなくすれ違うシーンを撮ったが、最終的に本編では使われなかった。
理由は聞かなかったが、やはり素人の私の歩く姿になんとはなしの違和感があったりしたのだろう。
さりげなくすれ違う。
だが、素人にとっては、その「さりげなく」というのが最も難しいことなのだ。ちょっと残念な気もしたが、ぎこちない「演技」姿を映像に残されなくてよかったのかもしれない。
それはともかく。
その夜、やはり日本から駆けつけたテレビ局とスポンサー側のスタッフによって設営された小さな会場で、ちょっとしたパーティーが催された。
私は、大沢たかおさんから撮影の困難と、それに倍する心震えるような瞬間の体験談などを聞きながら、楽しい一晩を過ごした。
翌日は、まったくのフリーだった。
私はひとりで『深夜特急』の旅の終着点だったトラファルガー広場を歩いたり、ナショナル・ギャラリーに立ち寄ってレオナルド・ダ・ヴィンチの「岩窟の聖母」を眺めたり、テムズ川沿いをぼんやり散歩したりしているうちに、胸の内側からふつふつと湧き起こってくる思いをどうしようか、迷いはじめていた。
あの『深夜特急』の旅については、いくつかの心残りがあった。
その中で最大のものは、ヨーロッパから地中海を越えてアフリカに渡らなかったことだった。
別にアフリカという大陸に強い執着があったわけではない。その北の端にあるモロッコに行こうかどうしようか、迷ったのだ。
モロッコにはマラケシュという町があるが、そこは、インドのゴアやネパールのカトマンズやアフガニスタンのカブールやトルコのイスタンブールと同じようなヒッピーの聖地なのだという。
実際、ヨーロッパから西に下ってくるヒッピーの多くが、マラケシュの素晴らしさを口々に語っていたものだった。マラケシュには俺たちが必要とするすべてがあった、と。
だが、私はスペインで、そのモロッコを目前にして、きびすを返してしまっていたのだ。
のちに、よく、どうして海を渡らなかったのだろう、どうしてマラケシュに行かなかったのだろうと思うことがあった。
いや、あの旅は、あれでよかった。もし、あのまま海を渡って北アフリカのモロッコへ向かい、マラケシュに足を踏み入れていたとしたら、日本にいつ帰れたかわからない。そうは思うのだが、もしマラケシュに行っていたら、という思いは何十年たっても消えることがなかった。
私は、その日、ひとりでロンドンの街を歩きながら、湧き起こる思いを抑えることができなくなってきた。
〈このままマラケシュに行ってしまおうか……〉
幸い、義務的な仕事をきれいに片付けてきたので、しばらくこの先に予定は入っていない。
私は、いつしかセント・マーティンズ・レーンを通って、ピカデリー・サーカスに向かっていた。その近くにあるはずの大きな書店に行こうとしたのだ。
買いたい本があるわけではなかった。ただ、本のある棚をめぐりながら心を落ち着けようとしていただけなのだ。
歩いていると、通り沿いに、間口は狭いが奥に長い鞄屋があるのに気がついた。深い考えもなく、その店に入り、棚に並んでいる商品を眺めているうちに、壁にかかっている小ぶりのバックパックが眼に留まった。グレイとパープルのあいだのような、面白い色の地に、要所を黒で締めた色のバランスも悪くない。
私が眺めていると、若い男性の店員が近寄り、ご覧になりますかと訊ねてきた。
別に買う気のなかった私は、いえ、と答えかかって、ええ、お願いします、と答え直していた。
店員は、先端にUの字のかたちをした取っ手のついた長い竿を持ってくると、器用に引っかけてそのバックパックを壁から下ろしてくれた。
手にとって調べてみると、見た目ほど小さくはなく、それなりの荷物は入りそうな容量がある。
買おう、と私は思った。
ホテルの部屋に戻ると、ロンドンに持ってきていた荷物を、ツインのベッドのうち、使っていない方のベッドの上にすべて並べた。
Tシャツ、下着、靴下、洗面道具、本、ノート、筆記用具、カメラ、フィルム、テープレコーダー、ビーチサンダル、物干し用ロープ、パスポート、帰りの航空券、現金、クレジットカード。
それに、クローゼットの中に掛けてあったジャケットとジャンパーと長袖シャツ。
私は、その中で、ジャケットをはじめとするバックパックの旅に不要と思われるいくつかを取り除き、残ったものを買ったばかりのバックパックに詰めてみた。
バックパックには、そのすべてが、充分な余裕を持って入ることになった。
私は、そのバックパックを担ぎ、部屋にある大きな鏡の前に立ってみた。
このところ、オリンピックだとかボクシングの世界タイトルマッチだとかを取材するため外国に行くことが続いていたが、そのときは、キャリーバッグを使うことが多く、バックパックを担いで気ままな旅をすることがほとんどなくなっていた。
しかし、久しぶりにバックパックを担いだ鏡の中の私は、とても自由そうに見えた。
そのとき、電話局で大沢さんとすれ違うシーンを撮った際に覚えた奇妙な感覚が甦ってきた。
私は、旅を終えた大沢さんとすれ違ったとき、一瞬、今度は私がその旅を引き継ぎ、旅を続けることになったのかもしれないという考えがよぎったのだ。
もちろん、そんなことはありえない。カメラの前で演技をしているという非日常的な行為が、倒錯した、錯覚に近いものを生み出したのだろう。しかし、電話局の前から、演技としてしばらくひとりで歩いているとき、このまま歩いていけば、あの旅の続きの旅ができるのかもしれないと、一瞬ではあったが、思ったことは間違いなかった。
ホテルの鏡の中の自分を見ていた私は、バックパックを肩から下ろし、一呼吸置いてから、口の中で小さくつぶやいていた。
〈行こう!〉
残った荷物は、それを入れてきたキャリーバッグに詰め、日本に帰るという制作チームのプロデューサーである小野氏に託し、東京の自宅に宅配便で送ってくれるよう頼めばいい。
そう思い決めると、一挙に、旅をする気分になってきた。
このところ、自由気ままな旅というものから遠ざかっていたような気がする。だが、久しぶりにこの旅は、あてのない、期限も定めぬものになりそうだ。
さあ、行こう。
どこに?
もちろん、マラケシュに。
そのようにして私は、『深夜特急』の旅で残した「心残り」の、その心を回収するため、一九
九七年五月、ロンドンからモロッコへと旅立つことになったのだ。
(続く第一章からは、書籍にてお楽しみください)
沢木耕太郎
1947年東京都生まれ。横浜国立大学卒業。22歳でルポライターとして出発、25歳のときに第一作の『若き実力者たち』を刊行。26歳から27歳にかけての旅を描いた『深夜特急』三部作は旅のバイブルと称され、今もロングセラーとして読み継がれる。主な著作に『テロルの決算』(大宅壮一ノンフィクション賞)、『一瞬の夏』(新田次郎文学賞)、『バーボン・ストリート』(講談社エッセイ賞)、『凍』(講談社ノンフィクション賞)、『キャパの十字架』(司馬遼太郎賞)、『天路の旅人』(読売文学賞)、写真集『天涯』三部作(小社刊)がある







