2014年12月16日

小説のルール

 世田谷の経堂にある、満月という意味の名のイタリアンは作家・片岡義男さんの行きつけの店だ。駅からほど近くメニューも豊富、価格も手頃で地元に定着している店だ。片岡さんが注文する料理はいつも決まっている。ルッコラのサラダをはじめ前菜を四品、それにパスタを数種類、メインまでは行かない。何度もフォカッチャをお替わりする。そのフォカッチャは作りたてのホクホクで、それだけでこの店に来た甲斐がある。
 仕事の話はすぐ終わり、デザートの時間となった。片岡さんはエスプレッソをダブル、僕は自家製のミルクアイスクリームとティーを注文する。おもむろに片岡さんが口を開いた。
「この間、岸本佐知子さんにお礼かたがた食事をしたんです」
 片岡さんがエスプレッソの香りを楽しみながらこう言った。
「お礼、ですか?」
「うん、お礼です」
「何の、ですか?」
「秘密です」
「いじわるですね、聞きたいです」
 僕が少しムキになって食い下がると、片岡さんは微笑みながら答えた。
「今小説を書いていて、それが二百枚ぐらいになったのだけれど、タイトルが決まらなかった。その時彼女の訳した絵本を見て、ふとタイトルを思いついたんです」
 岸本さんが最近訳した絵本、ショーン・タンの『夏のルール』のことを片岡さんは言っているらしい。主人公である「ぼく」とお兄ちゃんが交わした数々のルールを描いた絵本だった。
 たとえば「赤い靴下を片方だけ干しっぱなしにしないこと」の約束。それを破るとどうなるのか、赤か、それとも片方の靴下が何かのおまじないなのか。見開きのイラストでは干しっぱなしの赤い靴下を目印とばかり、巨大な赤いウサギが物干の陰から姿を現して兄弟を驚かせている。
『夏のルール』は、ショーン・タンの『遠い町から来た話』に収録された、地図の果てまで探検旅行をした兄弟の続きの物語だ。岸本さんは帯でこう書いている。
「あの二人が帰ってきました。かつて子供だったことのある、そして夏休みが永遠に終わらなければいいのにと願ったことのあるすべての人々に、この本が届きますように」
 「ルールは守ること、それが意味のわからないルールなら、なおさらのことだ」とショーン・タンは書く。
 兄弟にとって夏のルールは冒険に満ちた豊かな魔法の言葉だ。インディアンの神話のように自然と人間の調和を描いているようにも思えた。お兄ちゃんは大事なことしか言わなかった。そして「ぼく」は本当に大事なことを何度も言った。思えば人が文字を得たのはごく最近のことで、それまでは誰もが話すことで仲間と意思の疎通をした。夏の間に交わされたルールは絵本のように単純で音楽のように美しいものだった。
『夏のルール』、果たして片岡義男の小説は、どんなタイトルになったのだろうか。