2016年10月20日

お引っ越し

 熊本にある橙書店が先の地震の影響もあってお引っ越しをする。新市街にある長屋のような軒先に店を構えたのが2008年の2月のこと、店主の田尻久子さんはオレンジというカフェを2001年9月に立ち上げ、元来の本好きもあってすぐ隣で書店を開いたのだ。田尻さんの橙書店開業時の言葉がいい。

「小さな本屋を作りました。例えば、繊細な切り子のグラス、素朴であたたかな焼き物、凛として美しい漆碗、そういった、ひとつひとつを選ぶとき大切にそっと手に取ります。心を込めて作られたものですから。『一冊の本を選ぶときもそうであってほしい』そんな気持ちで作りました」

 言葉を繋ぐ人、絵を描く人、写真を撮る人、本の顔を作る人。それをまとめる人、一冊の本には心が込められているという田尻さんの言葉に勇気づけられる。限られた小さな空間での品揃え、優れた読書家である田尻さんを頼って人も集まる。時にわたしのために本を選んでくださいという注文も入る。そして次に母のために元気になる本を選んでくださいと。

時に愛する人を思う本、父に贈る本、母に読んでもらいたい本、死を考える本と次々にリクエストが舞い込む。一軒の本屋さんはまるで古老の智慧のような場所となっていく。水場に人が集まるように気持ちのいい空間、まるで沙漠の井戸のようなところとして橙書店は育っていった。

 棚が外され、本が次の場所に運ばれるためにダンボールに梱包された殺風景な空間でこの場所最後の読者として田尻さんに一冊の本を選んでもらった。テーマは旅に出るための本。

 彼女が選んだのは『名もなき人たちのテーブル』。マイケル・オンダーチェというカナダ人の作家の本だった。1954年セイロン、今のスリランカから一人の少年が大型客船オロンセイ号で母の待つイギリスへ三週間の旅をする。魅力的な人々との出会い、心踊る物語は冒険小説にも恋愛小説にもミステリー小説にもなる。優れた物語はあまねくそういうものかもしれない。

スイッチ編集長 新井敏記