『ドクロ』刊行記念 ジョン・クラッセン インタビュー 前篇

『MONKEY vol. 32 特集:いきものたち』に掲載された、柴田元幸が聞き手を務めたジョン・クラッセンへのインタビュー「闇がそこにあるとう実感」を特別公開。

『ドクロ』について

柴田 『ドクロ』のある場面でドクロがナシを一口かじって「ああ、おいしい」と言ってから、そのナシが床に落ちる。あるいは、オティラがドクロの口にお茶を注いであげると、椅子にこぼれる。こういうのって、編集者から「わかりにくい」と言われて、戦わないといけなかったりしませんでしたか?

クラッセン いや、それについては戦う必要がなかったな! もし読者が「わかりにくい」と思うようだったらぜひ聞きたいですね。あの物語がどういうふうに独自のルールを打ち立てていくのか、そもそもどの本でも宇宙はどのようにはたらくのか、そういうことにすごく興味があるから。

 物語に魔法があるとき、そういうルールに話の中で触れるのはとりわけ面白い。その魔法がどのようにはたらくのか、作者は説明することもできるし、説明しないことも選べます。僕としては、あまり説明しない方が好きです。ナシやお茶のところは、「なんだか可笑しい」という感じ、ムードが少し明るくなることをめざしているんだけど、同時に、この世界のどこまでは魔法で、どこで魔法が終わるかのを、それとなく説明しています。食べ物はあのドクロのなかに消えていきはしない。このディテールを通して、あの屋敷での彼の生活全体が具体的に伝わってきます。つまり、ドクロは宙に浮かんだりしないし、食べ物を消えさせたりもしない。ここにはそんなに大きな魔法はないんです。彼はただのドクロであって、移動する力はある程度あって、なぜか喋ることもできる。でもそれだけ。


柴田 「わかった」というリフレインが素晴らしい。言われるたびに意味が違いますよね。

クラッセン  あのリフレインについては、戦って負けたんです! 英語では“all right”を縮めて“alright”と書きますよね。こっちの方がカジュアルだし、僕から見てより慎ましくて、静かで、いいと思う。だから初めの方の原稿では、誰もが“alright”と言っていたんだけど、これは正しい言葉じゃないから使えないと出版社に言われたんです。何度か抵抗したし、いままでは似たような議論になってもたいていは勝ったんですけど、たしかに“all right”と書いた方が、「毎回意味が変わる」感じも、文脈が変わっていることも、よりはっきりする。というわけで今回は折れました。

 「わかった」がいいと思う理由はいくつもあります。英語の言い方として、とても優しいし(少なくともしかるべき言い方をすれば)、オティラとドクロはたがいに対してすごく優しい。二人ともこれまで優しくない人生を生きてきて、出会ってすぐ、たがいを気遣うような関係を築いて、たがいにとても優しくふるまいます。だからこの二人にはぴったりの言葉です。それと、実はどちらかが動揺しているように思える場面でも相手が「わかった」と言うことが一度ならずあります。なぜ逃げてきたのか、オティラが詳しく言わないときも、ドクロは「わかった」の一言で優しく話を終わらせる。ドクロにもっときつい言い方をさせたら、オティラのぶっきらぼうさにムッとしてるように思えてしまうかもしれないけど、「わかった」の一言にはどこか、それでいいよ、と感じさせるところがあると思う。

 僕はそもそも、リフレインというものが大好きなんです。おっしゃるとおり、同じことをくり返して、違う意味を持たせるのが楽しい。なんとなくそれが、人生の真実を衝いている気がするんです。だから文章でも絵でもよくやります。くり返しがあることで、読み手・聞き手も物語を作る作業に加わります。で、やってみると子供はそういうのをすごく喜ぶんです。

クラッセン作品全般について

柴田 あなたの本はしばしば、死の観念に浸っていたり、死の影がさしていたりする。エドワード・ゴーリーを顕著な例外として、児童書としてはかなり特殊なんじゃないでしょうか。このあたりは意図的になさっているのか、それとも自然にできてしまうのか。

クラッセン まずエドワード・ゴーリーは大きな影響源だし、僕のヒーローです。僕の絵は彼とはだいぶ違うと思うけど、あの雰囲気、ドライな感じ、それにデザインのセンスにはすごく学ぶところがあったし、いまも学んでいます。ゴーリーはデザイナーとして世界有数だと思うんだけど、ほかの面もすべていいものだから、その点はあまり認識されていませんよね。レイアウトのセンス、字体のセンス……)もうとてつもなく素晴らしい。

 作品のなかでの死の使い方は、僕と似ていると思う。僕は静かで、日常的な感じの物語が好きなんだけど、「静かな日常」というのは、死と隣り合わせに描くと一気に面白くなります。だから死は、全体を「静かな日常」で行く許可を得るためのちょっとしたトリックとも言えます。

 北米でももっと死を扱う児童書があるといいんだけど。ここの文化は抑圧しすぎだと思う。古い文化と違って、アメリカはまだ死をどう扱うかがわかっていないから、誰かが死ぬたびに思いもしなかった悲惨なことのように思えてしまいます。だから、子供は明らかに死のことを耳にしていて、いろいろ訊きたがるのに、大人はあまり話したがらない。僕の物語で死の存在を——少なくともその可能性を——認めるのは、だから、そういう子供の態度が正しいことを示したい、というところがちょっとあるかもしれない。「うん、そうだよ。人は死ぬんだよ。そういうことが起きるんだよ」という感じ。

 物語のなかの闇についても同じことを感じます。絵本でどこまで闇を子供に見せるべきなのか、ってときどき訊かれるんだけど、まるで絵本やおはなしのなかで子供が初めて闇に出会うみたいな口ぶりなんですよね。でも子供は闇というものを知っていて、すぐそこにあることがちゃんとわかっている。まあ細かいところや、その深さとかははっきりしていないでしょうけど、そんなもの大人にだってはっきりしませんよね。僕にとって物語に闇を入れるのもやっぱり、闇がそこにあるんだという実感の正しさを証したいというところがあります——読者に向けて、そして自分自身に向けて。

 それとは別に、たとえばアルフレッド・ヒッチコックのようなストーリーテラーが、作品の中で死を使うやり方が大好きです。死をどう感じるかは人それぞれだけど、物語の仕掛けとしてはすごくドラマチックで有用な仕掛けです。アメリカ人が死を語るのを嫌うことを、イギリス人のヒッチコックはちゃんと理解していて、だからこそ死をくり返し、ほとんど物語の決め台詞みたいに使ったんだと思います。僕もそれに近いんじゃないかな。ふつう児童書ではあまり使われないことはわかっているけど、だからこそある種の強みになる。セラピー的な効果だってあります。怖いと思うものを笑うっていうのは、すごく効き目があるんです。

後篇に続く

ジョン・クラッセン『ドクロ』(柴田元幸 訳)


2,970円(税込)