FROM EDITORS「揺れるパリ その3 失われた世代」

2023年3月、パリはコロナの影響から立ち上がり、ファッションウィークが開かれたこともあり、多くの観光客で賑わいを見せていた。公共の交通機関の利用も外での食事もマスクなしで可能となった。観光シーズンの幕開けだ。しかしこのタイミングにマクロン大統領は年金制度の改革案—— 受給年齢を62歳から64歳に引き上げる法案を国会に提出した。街はデモとストで騒然となった。公共サービスもストップした。しかしパリの人々は社会運動に慣れているのか、交通機関の封鎖やゴミの未回収の不便さを淡々と受けとめていた。

パリの5区、ノートルダム大聖堂に向かう。2019年の火災から復興を目指し尖塔を含めた改修工事が進められているはずだが、果たしてストの影響は聖堂にも及ぶのか、工事は一時ストップしていた。

私はセーヌ川にかかるプティ・ポン橋を渡り、16年ぶりにシェイクスピア&カンパニー書店を訪れた。店の前に立つと入り口にはロープが張られ、高級ブティックのように入場制限が行われていた。黒人の長身のドアマンがいて、一人ひとり持ち物もチェックしていた。入り口脇のディスプレイに飾られた本は特徴がないベストセラーだった。周りを見ると、隣のビルにはカフェが併設され、裏手にはホテルが営業中とあった。

かつては1日5時間店の手伝いをすることで、無料で書店2階の13台ある簡易ベッドで眠ることができた。午後3時にはパンケーキをフリーでふるまっていたのはなんだか遠い昔のような話だ。シェイクスピア&カンパニー書店の特徴の一つだった1万冊を誇る図書館機能も中断されている。2007年にこの書店を訪れた際、一階の奥の部屋で貸し出しノートにヘミングウェイのサインを見つけた時の感動を思い出した。彼の借りた本は、ローレンスの『息子と恋人』、ツルゲーネフ『猟人日記』、トルストイ『戦争と平和』、ドストエフスキー『白夜』だった。

かつて、1階の入り口近くの梁に掲げられていた看板を探した。

—— 見知らぬ人に親切にしなさい。彼らは変装した天使かもしれないから——

世界中の旅人は、果たしてどこに行ったのだろう。昔はなかった中階段をゆっくりと上る。踊り場にはいろいろな職を求める若者の希望を記した付箋が壁にピンナップされていた。その一角に書店の歴史が刻まれた写真が、古いピアノの上に置かれている。「優しく触れてください」と「写真はNG」という注意書きは珍しいことではないが、ここには似合わないと思った。勝手に演奏が始まっても誰一人驚く人はいなかった。そんな出来事がふさわしいここは貧しい者たちのサロンだった。

1919年シルヴィア・ビーチによって開かれたこの書店の名を、第二次世界大戦後の1951年に引き継いだのがジョージ・ウイットマンだった。そしてジョージの死後、娘シルヴィアが経営を引き継いだのは2007年のことだ。彼女は大成功を収め、書店は今とても繁盛している。それは素晴らしいことだ。しかし老舗書店の自由なイメージはなく、もはや誰にとっても特別な場所ではなくなっていたのだ。予定通り明日朝早くパリを出ようと思った。

スイッチ編集長 新井敏記