漫画批評家・夏目房之介 特別講義第3回

日本漫画批評の第一人者、夏目房之介さんの漫画講義、第3回。

今回はHM9Sをヒントに、漫画表現の「オノマトペ」と「左右」について教えていただきます。

バンド・デシネ 夏目房之介
<プロフィール>
夏目房之介(なつめふさのすけ)
1950年、東京都出身。漫画批評家、漫画家、コラムニスト。 『手塚治虫はどこにいる』(筑摩書房)や『マンガはなぜ面白いのか——その表現と文法』(NHKライブラリー)といった代表作で日本における漫画表現論の礎を確立。1999年、手塚治虫文化賞受賞。夏目漱石の孫。現在、学習院大学大学院人文科学研究科にて「マンガ・アニメーション芸術批評研究」の分野で教鞭もとる。

第3回 漫画表現における「オノマトペ」と「左右」

オノマトペ

この作品(HM9S)には日本語のオノマトペがたくさん使われていますよね。

 シリーズ第1巻『パン屋再襲撃』より
HARUKI MURAKAMI 9 STORIES 第1巻『パン屋再襲撃』より

オノマトペってすごく面白いのに、世界的には言語学の分野でまだほとんど研究されていないみたいです。特に日本以外の国ではそんなに重要な言語単位ではないようなので無視されている場合が多いです。

日本語には「擬音語」という声や音を模写した言葉と、状態を音のように表す「擬態語」があります。一般にオノマトペというと擬音語のことです。でも日本は圧倒的に擬態語が使われ、そもそも「擬態語」は日本だけで使われる概念です。擬態語の「わくわく」「どきどき」など、一般的に使いますし、フォーマルな場面でも使います。英語ではほとんど使いません。おそらく子供っぽく聞こえるのでしょう。アメリカの政治家は公的な場でオノマトペはまず使わない、という研究もあります。

困るのは、翻訳ですよね。はっきり言って、翻訳の仕様がないんです。「わくわく」とか「きゅん」って、どうやって外国語に訳すか、思いつきますか? 難しいですよね。でも日本漫画にはたくさん登場しますので、動詞や副詞に変えたり、訳し方がいくつか考案されています。造形的にも工夫されます。

①翻訳後の国の言葉や文字で図像的に作って当てはめる。

②日本のオノマトペをそのまま絵の一部のように扱い、外国語で意味の解説を入れる。

これは読者層によって訳し方が変わります。オタクほどオリジナルが好きなので、後者を好みます。一般的な読者は前者かな。

でもやはりすごく難しいので、翻訳家は苦労します。例えば、「シーン」という「音がない音」がある。これは②の形で訳されていました。英語には同等のオノマトペはないので「Silence」とされていました。「シーン」という造形を残したまま「Silence」と書いてありましたね。HM9Sでいえば、この「じーっ」と見る、の「じーっ」なんか難しいでしょう。

 HARUKI MURAKAMI 9 STORIES 第1巻『パン屋再襲撃』より
HARUKI MURAKAMI 9 STORIES 第1巻『パン屋再襲撃』より

バンドデシネには日本漫画ほどオノマトペや漫画的記号は使われません。アメコミの影響を受けている時期は違いましたが、アーティスティックになるにしたがってオノマトペや漫画記号は排除されました。日本でも江戸期に狩野派であれ、浮世絵であれ、ひとつのタブローとして美術の完成度が高まっていくと記号が無くなっていくんですね。不思議ですが、美術史的な事実です。

右開き、左開き

HM9Sは右開き、一般的な日本の書籍や漫画と同じですね。どちらが良いということはありません。一言で言えば、これは「習慣」です。日本人は右開きに慣れているしリテラシーもこれで発達しているから、現状の日本の漫画市場で売るためには正しい選択かもしれません。

中国や韓国の人は、右開き漫画と左開き漫画のバイリンガルです。彼ら自身の出版物は、基本的にすべて左開きですが、日本漫画が大きな影響を彼らに与えたために、右開きの漫画を読むことにも、描くことにも慣れています。極端な話、本当に日本が国際市場を獲得したいならば、左開きがいいのかもしれません。

さらにもっと言うとWEB漫画には左も右もなく、上下の縦スクロールです。でもそうなると、僕らのやってきた表現論では、漫画の中の左右には意味があるので、僕らの説は過去の産物になってしまいますね(笑)。

僕らの表現論の文脈では、ヒーローやヒロインは右から現れて、敵はだいたい左から現れる。立ちふさがるものは左から。なぜなら、読者が右から読んで左に抜けるからです。『あしたのジョー』を分析してはっきりわかりました。ジョーは右から、ホセ・メンドーサは左から。もちろんたまに入れ替わりもしますが、基本的にはこの構図です。読者の視線の動きに沿っているんですね。

ただ、左右の文化差の議論はそれだけで終わりません。お芝居の舞台では、日本でも欧米でも、下手左側に門、上手右側に家屋や主人がくるときいたことがあります。また重要な問題として、人類のほとんどが右利きです。僕はそこまで研究していませんが、こうした文化差は関係してくるんじゃないかな。

一方で、上下は引力が関係するので普遍的です。上が「明るく」て「善」で「天国」がある。下は「悪」くて「地獄」がある。宗教・思想・哲学を見ても、だいたい全てそうです。

漫画について、右開きを左開きに変えるとき、またその逆のとき、単純にひっくり返せば良いのかどうか、ということに関しては、まだ未解決です。

コマごとの図版はそのままで、読みの方向を変えることもあります。なぜなら侍やスポーツ漫画をそのまま反転させるとみんなサウスポーになってしまいますから。昔の海賊版を見ると、お金がかけられないのでそのまま反転させていて、いろいろな矛盾が見えてきて面白いですよ。

つづく