日本漫画批評の第一人者、夏目房之介さんの漫画講義、第4回。
最終回は、村上春樹作品を例に、作品の読み方は、読者の属する社会や個人によってまったく違う、というお話をしていただきました。
第4回 社会や個人による作品解釈の相違
村上作品はデビューの頃から『ダンス・ダンス・ダンス』くらいまで大好きで、当時出版される度に買っていました。好きというか「俺のこと、なんでそんなに知っているの?」という感じで共感していた。自分と同一化して読んでいたんです(笑)。それで、HM9Sを読んだときにすごく意外だったのは、キャラクターがどうしてこんなにカッコ悪く描かれているのか、ということです(笑)。
すべての読者がそうではないと思いますが、少なくとも僕は村上作品の登場人物はかっこいいキャラクターだと、勝手に思っているんです。そんなこと直接的には書いていないのだけど、日本語で読む限り描写によってそう思わせるんですね。だからHM9Sは「村上作品なのに、こんな表情しちゃうの?」という印象を違和感として持ちながら読むんです。
それでは、どうしてこういう描き方になったのか。
まず僕が考えたのは、この作家(JcとPM)は村上作品をコメディとして読んでいるのかもしれない、ということ。作者はフランス語で読んでいるはずで、そこで出来たイメージはコメディなんじゃないかな、と想像しました。そう考えるとこの表情や絵のタッチも僕には理解しやすい。
そこには文化的な違いとか、言語の違いが横たわっています。翻訳したときに、ストーリーとかテーマはおおよそそのまま伝わったとしても、テイストは翻訳者がどう感じたかや言語の特性によって随分変わってくると思います。
あとは、読者や作者の歴史的なポジション、というもの重要な観点だと思います。20年以上前、僕が香港に行ったとき、村上作品が好きな現地の学生がいて、好きな理由を尋ねると、「主人公が自分の部屋を持っているから」と答えました。村上作品の登場人物って当たり前のように自分の個室を持っていて、それこそが村上春樹の世界なんですね。まさに個人主義。
それまで襖で、鍵がかからなかった部屋だった日本が、70年代になって一気に変わります。村上作品は、若者が個室を持てるようになった、ということを前提とした小説で、かつ、そのことが少しオシャレだった。実際には80年代に実現するような、あるいは80年代でも地方の人が憧れたような、個室を持って、バドワイザーを開けて、パスタを茹で、そしてもうちょっとで茹で上がるところで電話がかかってきて、というオシャレ感(笑)。それは日本人にとって実現可能な憧れでしたが、当時、香港の若者が家族の中で個室を持つなんて不可能だったのです。
でもフランス人の視点に立ってみると、我々が村上作品から感じるオシャレ感は、当たり前なのかな、と思ったのです。だからこのHM9Sからオシャレでかっこいい村上作品のイメージをあまり感じないのではないか。少なくともその社会が持っている憧れのポジションが、香港と日本のように、日本とフランスでも違います。
仮にHM9Sの作者二人が日本語を読めたとしても、我々とは解釈が違うはずです。文明史的にいって、読み手の視点、ポジションが違うから。でも実はそれこそが、漫画のように比較的簡単に国境を越えてしまう、越境性の高いメディアの面白さなんです。受容する共同体が違えば、同じ作品であったとしても、作品も変わってくる。日本の漫画ももちろん、HM9Sもその一つで、作品が一度海外に渡り、戻ってくるというところが僕は面白いと思っていて、だからこそ今みたいな考察が生まれます。僕はHM9Sは良い試みだと思います。
<おわり>