Special Contents 刊行記念特別対談 イッセー尾形×松岡和子 第3回(全3回)

『シェークスピア・カバーズ』の刊行を記念して『SWITCH Vol.39 No.10 』に掲載された、俳優・イッセー尾形と翻訳家・松岡和子のシェイクスピア対談を全3回に渡り特別公開。

第2回はこちら

Photography: Goto Takehiro

シェイクスピアの想像力

——『シェークスピア・カバーズ』10作品をオマージュして、あらためてシェイクスピアの魅力とはいったいどんなものだと思われますか?

イッセー 奥が深かったり世界が広かったり……無限とまでは言いませんけど、無限に近い深さも広さもあります。登場人物一人ひとりについても、考えてもしょうがないけれど、どこまでも考えてしまう。人物の枠が決められていない。逆に言うと自由なんです。「人間は自由の刑に処されている」と言ったのはサルトルです。名言です。そもそもシェイクスピア自体がカバーなんでしょう?

松岡 そうです。

イッセー 『リア王』のモデルの物語があった。

松岡 『ハムレット』もそうです。全部ネタがある。

イッセー よくわかるんです。ネタがあると、すごく無責任になれる。どこまでも想像力OKの世界。でも、出来たものに対しては責任を持つ。だから、無責任から始まって責任で終わるという、これは理想のパターンなんですね。私の一人芝居のモットーなんです。できるだけ無責任の方がいい。そういった意味でフリーになる前は無責任でいられたんですよ。ところが独立して一人になったでしょう。さあどうするか。最初から責任がある。これはつまらんのですよ。それでだんだん世の中が見えなくなって、女房とちょっと休みましょうという話になって。それで、演出家を見つけたんです。“時間”という。

松岡 ああ!

イッセー 今日思ったものを明日も思うと、粗が目立ってしょうがない。それで一週間寝かすともっとアイデアが出る。つまり“時間“が僕の演出家になった。これは死なないですからね。どこにも行かない。

 

Photography: Goto Takehiro

 

松岡 素敵なお話です。イッセーさんが一人芝居をなさる時、全てが“カバーズ”であると、そしてシェイクスピアにもネタがあり、役者も当て書き。切る側じゃなくて切られる側、捨てる側じゃなくて捨てられる側にも人は生きている。実際の舞台では百人隊、兵隊は出てこないけれど、名もないキャラクターはものすごくたくさんいる。『リア王』では、名前のある登場人物は全員悪で、名前がない登場人物は全員善と言ってもいいくらい。たとえばグロスター伯の目をえぐり出そうとするコーンウォール公に、召使いは「あなたには子供の頃から仕えてきたけれど、こうして止めるのが一番の奉公だ」と割って入って殺されてしまう。それに、目の見えなくなったグロスター伯の手を引いてドーヴァーまで連れて行ってあげようとする老人。みんないい人。そういう人物が想像力を掻き立てる。それはシェイクスピアが創造した人物ではあるけれど、結果的にその一人ひとりが主人公になりうる魅力を持っている。簡単な言葉で言ってしまえば、普遍性を持っているということ。シェイクスピアの頭の中には書いた時には役名はないけれど、実際に言葉を喋るのは目の前の役者だということがあるから、全部当て書きとして生きているんだと思う。

イッセー 今わかった。僕は自分に当て書きしているのかもしれない。

松岡 そう。だから、どのキャラクターに対しても平等にその人物になっていく。それこそ一人芝居『都市生活カタログ』に登場するのは無名の人ばっかり。

イッセー そうです。

松岡 その視点がスピンオフの視点に繋がっているんだと思う。だから本当に面白い。

——イッセーさんは以前ラジオで「ヨリックの手記」を朗読された。その時の熱量といったら。ヨリックは本来髑髏(しゃれこうべ)、墓に入っていて23年の間土に埋まっている。そこから蘇ってくる強さ、そしてそれゆえに全体を俯瞰し、周辺から物事を見ている。「時間」という概念はある意味「哲学」だと思いました。

イッセー 難しいんですよね。周辺だけど、同時に中に入っていなければいけない。役者はね。外から見た自分だけ演じたところで人はついてこないし、かと言って中に入ると周りが見えなくなってくる。でも両方なければいけない。それは作り手、書き手、翻訳家もすべて一緒だと思う。常にどちらかということはないと思う。

Photography: Goto Takehiro

--イッセーさんの文豪シリーズ『妄ソー劇場』の、夏目漱石の作品も、外側からの視点で語っています。絶えず自分から発するのではなくて、外側から見ている存在を演じています。

イッセー でもそれだけだとだめなんですよ。たとえば『門』の小六は兄貴の家で働かないでぶらぶらしている。エリート意識が高く、自分に合うものは世の中にはないから俺はプラプラしているしかないという。で、お義姉さんの具合が悪くなっていく。これを兄貴はどう思うのか。「自分の妻が悪くなっていくのをお前は傍観しているだけなのか」、なんて言える立場じゃない。常に外と中との相剋がある。そこを面白がる視点はどこなのかということになる。外も中もなく、両方やるしかない。

松岡 私がすごく好きなのは、今日最初に話に出た「クォーター・シャイロック」です。

イッセー ああ、嬉しいですね。

松岡 本当によくあんなこと思いついたなと思う。まったく知らなかったナチス・ドイツの当時の実情も教えてくれる。イッセーさんにいつかシャイロックを演じていただきたいと思いました。「クォーター・シャイロック」と「革命のオセロー」は、現代に至るまでのシェイクスピアの本質がフィクションを交えて面白く描かれています。

イッセー どうしてもそれくらい大きなインパクトのある出来事を扱いたくなるんです。シェイクスピアの懐の深さです。革命やナチス、戦争といった、大きく時代が揺れた時代の話をバックボーンにしたくなるんです。

松岡 シェイクスピアの劇は、今もなお生き延びてきています。シェイクスピア自身とその劇自体が当時の検閲を逃れ、巧みに作品を残してきました。東欧諸国が一時期あれだけ優れたシェイクスピアの舞台を数多く作ったのは、シェイクスピア自身が内包する、検閲を潜り抜けてきた作品の作り方と重なるんだと思う。あんなに支配階級を糾弾していても、何か言われたら「でも、これは12世紀のデンマークの話ですけれど?」と。明らかにロンドン市民の売春がどうのこうのとか書いてあっても、「でもこれウィーンの話ですけれど?」と言って切り抜けられる。

イッセー みんなスマホばかり見て視野が狭くなっている。それを打ち破る。シェイクスピアは「そんなもの取ってしまってもっと目を広げなさい」と言っているようです。


『シェークスピア・カバーズ』
3,520円 (うち税 320円)