FROM EDITORS「揺れるパリ その2」

2007年3月、パリのシェイクスピア&カンパニー書店を訪れた日の午後、今からジュンパ・ラヒリの朗読会が開かれると、カウンターに座るオーナーのジョージ・ホイットマンの娘シルヴィアが教えてくれた。

朗読会が行われる場所は、一度書店を出て、店脇の緑のドアを開けて二階に上がったところだ。入り口には「パリ祝祭日」と書かれた箱が置かれ、入場料は個人の裁量に任されている。僕は50フラン紙幣一枚を入れた。その紙幣にはサン=テグジュペリの肖像と『星の王子さま』の一場面が描かれている。今日の日にはなんだかふさわしい意匠だと思った。なにより『停電の夜に』の著者であるジュンパ・ラヒリの朗読を聴ける機会がパリであることを素直に喜んだ。20席ほどの椅子が用意され、僕は正面に近い席に腰を下ろした。正面にはセーヌ河を挟んでノートルダム大聖堂の尖塔が見える。あと少しすると夕日が美しい時間になる。

午後3時過ぎ、まずジョージが挨拶に立った。

「いつもなら長期滞在をする客人のためのパンケーキと紅茶が出てくる時間を楽しみに待つ諸君には申し訳ない。今日この時間だけは、職を求める情報交換などにぎやかな話題が飛び交う部屋ではなく、私たちにとって大切な作家を迎えることの喜びを静かに分かち合おう」

ジョージはそう言うと傍に座るジュンパ・ラヒリを紹介した。彼女は椅子に座ったまま軽くお辞儀をするとこう口を開いた。

「今日、ジョージが私の朗読会を『パリ祝祭日』としてくれたことに感謝します。きちんと祭りになる自信はありません。だって“パリ”、“祝祭日”といったらまずはヘミングウェイの『移動祝祭日』が思い出されます。比べるまでもない。パリは1920年代から特別な場所でした。当時流行したフレンチカフェには若者が集まり、雑誌が生まれ、ヘミングウェイやフィッツジェラルド、ピカソやブラックといった作家や画家たちが若く新しい才能を開花させていった。私自身がそうであったように、パリは一度は訪れたい特別な想いがある場所です。しかもシェイクスピア&カンパニ一書店は私にとってずっと憧れていた書店だった。まるで私は誰かが書いた恋の詩を自分の心情と重ね合わせるようにここにいる。ここに私の本が並び、こうして朗読をする機会が訪れるなんて夢のよう。ジョージ、本当にありがとう」

彼女が少し緊張した口調で、ジョージにお礼を言うと小さく頭を下げた。クルーネックのセーターが暑くなったのか、首筋を左手の甲で触った。

「パリに来て最初にどこに行った?」

ラヒリの緊張を和らげるようにジョージがそう質問した。

「エッフェル塔」

少し照れた彼女を見やると、ジョージは「僕もそうだった」と微笑んだ。入場者の小さな笑い声が起こった。

「最初はエッフェル塔は登るものではなく近くまで行って見上げていた。実際に登るのは観光客だ。年間600万人が利用する。真下に行くと4本の梁がアーチに沿って立ち上がり最後はひとつになる、その鉄塔はまるでレースで編んだように美しい。全体を見ると、まっすぐな鉄材が不思議と優雅な曲線となっている。君は明日、セーヌにかかるいくつもの橋を渡るといい。エッフェル塔を設計したギュスターヴ・エッフェルはもともと鉄道技師を経て高架橋や駅舎の設計者だった。パリは橋が美しい」

ジョージは言った。

「私がエッフェル塔で魅かれたのも梁。私は梁の下で冷たい風にあたっていた。どれほどあたっていたのかわからなかった。そしてようやく私はエレベーターに乗るための列に並んだ。自分がここにいてもいいと思った」

「風通しのいい鉄橋は軽い」

ジョージがそう口を開くと、ラヒリは「ルイ・アラゴンの詩ですか?」と訊ねた。ジョージは微笑みながら首を小さく振って「僕の詩」と答えた。そしてこう続けた。

「これから一生僕にはパリがついてまわるだろう。なぜならパリは饗宴のように魅力的なお祭りのような世界なんだ。でも安心して。ヘミングウェイだってパリで貧しい生活を送って公園の鳩を食べていた」

「ジョージ、それがあなたが青年時代にパリに住んだ理由、そしてここに書店を開き、今まで住み続ける理由でもあるのですね。私の両親は私が3歳の時にインドからイギリスに渡り、そしてアメリカに移り住んだ。そして私は今フランスにいる。でも物語は英語で書く。今日だけは私はパリの恋人気取りで行くかもしれない。今から“Once in A Lifetime”を読みます」

その凛とした表情は、まるで映画の主人公にも似て美しかった。

スイッチ編集長 新井敏記