FROM EDITORS「揺れるパリ その1」

パリのカルチェラタンのシェイクスピア&カンパニー書店を最初に訪れたのは、2007年3月だった。この書店の歴史は古く、1919年の第一次世界大戦後から始まる。最初のオーナーは牧師の娘だったシルヴィア・ビーチというアメリカ人だった。パリに住むアメリカ人ための英文書専門店として、デュプイトラン通り8番地にオープンした。2年後にはオデオン通りに引っ越し、図書室などを広げた文学サロンとして発展していく。図書室設立の目的は「世界をもっと知るために」というシルヴィアの思いだった。会員の入会金は12フラン、当時の1フランは約千円前後とされる。この会費が高いか安いかは個々の判断に任せよう。いずれにしてもパリのアメリカ人作家にとっては、大変重宝された読書体験の場所だった。

若きアーネスト・ヘミングウェイやアンドレ・ジイド、 アンドレ・マルロー、ガートルード・スタインらが図書会員となった。ヘミングウェイはこの図書室でD.H.ローレンスやトルストイ、ツルゲーネフなどの本を借りて読んだという。当時の図書カードが残っていて「読書という体験は世界を知ること」という言葉が掲げられている。実際この読書体験は創作の源として貴重な機会を無名の作家に与え、ヘミングウェイは300部限定でシェイクスピア&カンパニー書店より 『三つの短篇と十の詩』を発行し、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』を千部限定で刊行していった。しかし第一次世界大戦の反省もなく、シェイクスピア&カンパニー書店は1941年のナチスドイツによるパリ侵攻を期に閉じることを余儀なくされた。

アメリカ詩人ジョージ・ホイットマンが、パリのアメリカ人のために書店を開いたのは1951年のことだった。店名は「ル・ミストラル」、フランス南東内部ローヌ河谷に吹く冷たい北風のこと。シルヴィアとも親交があったジョージは、1961年に彼女が亡くなると、その翌年、その意思を継ぎ、かつては修道院だった場所にシェイクスピア&カンパニー書店を開いた。

ビート詩人のアレン・ギンズバーグやウィリアム・バロウズなどとジョージは交流を持ち、書店の一角で作家や詩人の朗読会を積極的に行っていった。書店の至るところにベッドが置かれ、その数13台。宿泊費はフリーだが、唯一の規約は宿泊費代わりにA4の紙一枚分の自伝を書かなくていけないというものだ。それが無理なら、1日1冊本を読み、2時間無償で店員として働かなくてはいけない。なんと恵まれた条件か、ここに泊まる人は「タンブル・ウィード」と呼ばれた。夏の終わりごろに枯れてちぎれて、風に吹かれながら球状になり、原野を転がり続ける乾燥地帯の雑草のこと。

壁には大きく落書きが残されていた。

“BE NOT INHOSPITABLE TO STARANGERS LEST THEY BE ANGELES IN DISGUISE”

「見知らぬ人に冷たくするな、彼は姿を変えた天使かもしれない」とでも訳するのだろうか、口さがない保守派の政治家は「書店に見せかけた社会主義のユートピアだ」と批判した。

2007年、この書店を私が訪れた時にはジョージは94歳になって、27歳の娘シルヴィアに書店を任せたばかりだった。娘の名はシルヴィア・ビーチへの果たして追憶だろうか、引退に際してジョージは店の扉にこう書き記した。

「どの修道院にも夕闇に火を灯す者がいる。私は50年以上その役割をしてきた。いまや娘の番だ」

年齢差は67歳。シルヴィアに父のことを訊ねた。

「ジョージは日曜日の朝にはパンケーキを焼き、4時にはティータイムを忘れなかった」

引退後、ジョージは書店の2階に住んで、店に出ることはなかった。なぜ天使の言葉を掲げるのか、ジョージの思いをシルヴィアに訊ねた。

「若い時に南米を旅していた父は、高熱のため倒れかかったところを、道で出会った見ず知らずの人が家に連れていってくれて治療してくれたことが忘れられない。その寛大さに影響を受けたのだと思う」

2011年12月14日ジョージは書店の2階で亡くなった。98歳、なんという幸福な死だろうか。

スイッチ編集長 新井敏記