FROM EDITORS「パパは世界一」

先日片岡義男さんに、玉川学園駅近くでお目にかかった。この街に足を運ぶのは、本当に久しぶりで、SWITCHの前身ISSUEの頃、1980年代初頭まで遡る。当時片岡さんに指定されるのは駅近くの喫茶店だった。「POPEYE」を通して片岡さんに知己を得て、雑誌のことをいろいろと教わった。「いつか君と雑誌を一緒にやりましょう。そのために雑誌を勉強しておいてください」と、片岡さんに言われたことを励みにした。すぐに片岡さんから1967年創刊当時のサンフランシスコの「ローリング・ストーン」誌が大量に送られてきた。創刊号はジョン・レノンのロングインタビューが全頁にわたって掲載されていた。インタビューの醍醐味と人と時代の息吹にぼくは圧倒され夢中になった。

ISSUEは何度となく形態を変えた。それが面白いと言ってくれたのは唯一片岡義男さんだった。1985年6月片岡義男責任編集の「個人的な雑誌1」が角川文庫から発行された。それから遅れること3カ月、ぼくは「SWITCH」を刷新して人を特集する雑誌として刊行した。創刊号の特集はサム・シェパード、もちろん片岡義男さんの掌編を掲載した。

食事に誘われることもあった。毎回ゲストがいて片岡さんを中心にテーブルを囲むスタイルは一緒だが、片岡セレクトのレストランは経堂だったり代々木だったり、新橋だったり四谷だったりと洋食の中でも種類は多岐にわたっていた。たとえばピザなどの切り分け取り分けは片岡さんの役割だった。片岡さんはナイフをきれいに滑らせて、人数分に本当に鮮やかに切り分ける名人だった。パパ・ヘミングウェイのように片岡義男さんは逞しかった。

50年代後半日本で放映されたアメリカン・ホームドラマの「パパは何でも知っている」や「うちのママは世界一」の中の、夕食の場面が重なった。肉は塊のまま大皿で出され、テーブルの上で切り分けるのはパパの役割、食後の皿洗いもパパが担当で、拭く係はママだった。キッチンには巨大な冷蔵庫があり、大きな牛乳瓶からそのまま少年が飲むのをママが咎めたりする。あんな行儀の悪いことを真似したくてもそもそも大きな牛乳瓶などなかった。後にそのライフスタイルは「アメリカン・ウエイ・オブ・ライフ」 だと知った。庭付きで大きなガレージにはアメ車がある郊外型の戸建て住宅、シアーズの通販カタログで購入した電気製品、合成繊維によるカジュアルウエア、リーバイスのジーンズ、そして飲み物はコカ・コーラ。片岡義男さんが通販でアメリカから買ったL.L.Beanのバルキーニットのセーターをある日いただいたが、今でも僕の宝ものだ。

スイッチ編集長 新井敏記