FROM EDITORS「旅をする木」

盛岡に行った夜のこと、地元の方の案内を受けて「東家」というそば屋で夕食を取った。東家は創業明治40年、わんこそばでよく知られた店だ。盛岡も緊急事態宣言が出ていて、20時までの営業。既に19時をまわっていたのでわんこそばはお出しできないと、店の主人は頭を下げた。こちらはいっこうにかまわない。店の奥の個室に案内された。メニューから鴨そばとカツ井を注文した。

個室で目を引いたのはテーブルで、90ミリの厚みの一枚板の木目が美しいものだ。主人に聞くといちょうの木だという。棚にはこの店の歴史を伝える文献のコピーが置かれていた。秋山ちえ子さんの著作が数冊、東家と彼女の交流を伝える新聞記事の脇にあった。秋山さんは東家の先代の主人馬場勝彦さん深いつながりを持ち、盛岡で社会福祉活動を広く続けていたとその記事は伝えている。

秋山ちえ子さんは放送ジャーナリストでラジオパーソナリティの草分けのような存在だった。僕が秋山さんの知遇を得たのは今から20年近く前、目黒の秋山さんのご自宅にも伺ったことがあった。主人は懐かしそうに「このいちょうのテーブルは秋山さんの家から譲り受けたものなんです。秋山さんの家の近くに立っていた樹齢120年のいちょうの木が、その土地がマンションになるので邪魔になると切られてしまって」

主人の話を聞きながら、いちょうの木が秋山さんの家の目の前に立っている光景を思い出していた。秋山さんは階段脇の小窓から毎日いちょうの木に「ごきげんよう」と挨拶をかわす。まるで彼女のラジオ番組のようだ。

「毎朝ここから眺めるのが日課。秋の晴れた日は葉が黄金色にキラキラ輝いてきれい、嵐のは枝が大きく風に揺れる姿がいい。いちょうの木は防火になって火事になると樹幹から溜め込んだ水を滴のように噴き出すという大切な木」

嬉しそうに「いちょうの木は偉い」と語っていた秋山さんの笑顔が印象的だった。その日の訪問の目的は、哲学者串田孫一さんからの手紙を見せていただくことだった。

赤い箱に入れた串田さんからの手紙はまさに秋山さんの宝もののように大事にされていた。万年筆で書かれた水の流れるようなとうとうとした串田さんの筆致は、いちょうの木の樹幹を流れる雫のように思えた。

そのいちょうの木が突然切られた。秋山さんの深い悲しみを思う。しかし彼女はタフな人、嘆くだけではない。倒された木を引き取り、製材をし、それなりの厚さに挽いて何年も乾燥させひとつのテーブルとしたのだ。高さは61センチ、なでてみるとひんやりと冷たい。その趣き、ゆったりとした手紙を書くためには最適な机だと思った。

スイッチ編集長 新井敏記