FROM EDITORS「最後の五色納豆」

今から25年前、沢木耕太郎さんと連載の打ち合わせに、三軒茶屋のイタリアンレストランでランチをしたことがあった。「ここの看板メニューだ」と、沢木さんは納豆スパゲッティを注文した。他のテーブルを見渡すと、幾人かの客が納豆スパゲッティを食べていた。僕は茨城県生まれが、それほど納豆は好きではなかったので、納豆スパゲッティを口にすることはなかった。

ほどなく、沢木さんに夕食を誘われた。六本木交差点近くビルの地下1階、「わかば」ひらがなの空色の看板が表に灯された和食店だった。沢木さんがオープンキッチンのカウンターに座ると、店主は品書きを持って挨拶に出てこられた。でもそれを開くことなく沢木さんは白のグラスワインと、もうメニューは決めていたと自家製腸詰と五色納豆を注文した。そして僕を店主に紹介してくれた。店主の名は寺井延吉さん、フロアを切り盛りするのは妻の節子さんだった。キッチンは息子4人がつとめ、「長男の竜平、次男の航介、三男の将太、そして四男の東吾」と延吉さんは順番に紹介してくれた。兄弟は口ぐちに「こんばんは」と元気な笑顔で挨拶を交わしていく。

「昔はみんなワルだったんだよ、でも今はこうして手伝っている」沢木さんの言葉に節子さんは相貌を崩した。

「『わかば』はいつ開店したのですか?」僕が延吉さんに声をかけた。

「1971年、ディスコブーム前に開店しました」延吉さんは小さく微笑んだ。「延吉さんの創作料理は人気も高く、すぐに評判となった」と沢木さんが言った。品書きに目をやると、白身魚の薄作りからスペアリブ、ピロシキまで多彩なメニューが内容の説明とともに丁寧に記されていた。延吉さんの手書きはあたたかく料理を美味しく伝えていた。「五色納豆です」と節子さんは、納豆、ネギ、しそ、のり、イカ、マグロ、卵黄が彩り豊かに大皿に盛られた品を僕たちの目に前に見せると「こちらで混ぜますね」と、わずかに醤油を垂らし、レンゲでよくかき混ぜていく。なかなかの見せ場と感心した。取り分けられた五色納豆を一口食べるとコリコリとしたほどよい食感を残し、次にうまさが口に広がる。粘りも軽く、これが納豆の甘みかと、さらっと食べた。「この五色納豆は延吉さん発案で生まれた一品」と沢木さんは言う。口当たりがよくすぐに評判のメニューとなる。その延吉さんは元祖だと誇ることもなく淡々と微笑んだ。延吉さんは料理教室を主宰して修行で培った技を惜しげもなく伝えていく。和食をもっと広める、それが彼の願いだった。延吉さんは日活のアクションスターのような風貌で粋な料理人だ寺井一家の笑顔が素敵で、僕も常連の一人になった。2016年延吉さんの死後、店を継いだ4人の兄弟は味を守り続け、ハワイにそして博多に店を出して、兄弟それぞれの工夫を取り入れ味を伝えていた。僕は4人兄弟と親交を結び、節子さんとは、延吉さんの馴染みの人を訪ねて利尻島まで足を運んだ。

ある時メールが届いた。2020年の暮れ、50周年を節目に六本木の「わかば」は店を閉じることになったという残念な知らせだった。数年前に改装したばかりだったが、全てがコロナの影響だった。六本木の店を継いだ次男の体調もあまりよくはなかったと聞いていた。

12月のある日、五色納豆を食べに出かけた。納豆は相変わらず苦手だが「わかば」のものは美味しくいただけた。「ごちそうさまでした」僕はそう言うと箸を置いた。節子さんの笑顔が最高のもてなしだった。

スイッチ編集長 新井敏記