バンドデシネの翻訳家・原正人さんにフランスのバンドデシネ出版事情や今気になる作品を聞く全4回のインタビュー!
今年、『HARUKI MURAKAMI 9 STORIESパン屋再襲撃』(以下、HM9S)を皮切りに、漫画(バンドデシネ)で読む村上春樹シリーズの刊行が始まりました!……とはいえ、まだまだバンドデシネ・ビギナーのHM9S編集部。シリーズ最後の9巻目が出る2020年までに、バンドデシネのことを語れるようになりたい! そんな想いから、バンドデシネに詳しい方々を訪ね、勉強したいと意気込んでいます。初回は、様々なバンドデシネの翻訳を手がける原正人さんにお話をお聞きしました。
最終回:今、原さんが気になるバンドデシネ
知られざるバンドデシネの世界をこの連載で深く学べました。最後は本当にまだ知られていない原さんオススメのバンドデシネを紹介いただきます。
——今日は原さんが最近お気に入りの作品を持ってきてくださいました。
原 『HARUKI MURAKAMI 9 STORIESパン屋再襲撃』は小説をもとにしたバンドデシネですが、文学のバンドデシネ化作品って、実は他にもたくさんあるんです。その一端については、笠間直穂子さんという方が、「フランス小説の漫画化をめぐって」(『芸術におけるリライト』アウリオン叢書16、弘学社、2016年)でご紹介していますが、ここ数年、ほんとに増えています。今日はその中でも、僕がここ数年で読んで、面白かったものを持ってきました。まずはジャン・アランバの『ユリシーズ―帰還の歌(Ulysse, les chants du retour)』という作品です。
——『ユリシーズ』! 『オデュッセイア』ですか! 文学は文学でもそれはまた古い作品ですね。
原 そうなんです。『オデュッセイア』はトロイア戦争に参戦したオデュッセウス(ユリシーズはその英語読み)が、戦後10年かけて、艱難辛苦の果てに故郷のイタケーに戻ってくるという話ですが、この作品は、彼がイタケーに到着してから、王座に返り咲くところまでに焦点を当てています。ただ、この本では、『オデュッセイア』のその部分をバンドデシネ化しているだけじゃなくて、オデュッセウスの物語が語られるのと並行して、何らかの形でこの叙事詩と関わる現代の人たちのエピソードが語られていきます。例えば、オデュッセウスの故郷イタケーと同一視されているイタキ島というギリシャの小さな島があるんですが、そこにただひとつ存在している小さな公立図書館の司書の日常とか。他にも、イタリアの映画監督ウベルト・パゾリーニが『オデュッセイア』で映画を撮りたがっているという話が出てきたり、『オデュッセイア』の翻訳者でもあった“アラビアのロレンス”ことトーマス・エドワード・ロレンスの『オデュッセイア』に関する考察が紹介されていたり……。特に古代ギリシャ研究の泰斗ジャン=ピエール・ヴェルナンと彼の孫との対話が何度も挿入され、“老い”、“故郷への帰還”、“伝承”といったテーマを通じて、『オデュッセイア』という古典の現代性が、古典らしくというべきか、慎ましやかに提示されていきます。
——敷居の高い古典文学もバンドデシネでなら読めそうです!
原 続いて、この10月に出たばかりの本なのですが、ダヴィド・サラの『チェス・プレイヤー(Le Joueur d’échec)』。これは、オーストリアの作家シュテファン・ツヴァイクの小説をバンドデシネ化した作品です。日本では『チェスの話』というタイトルで小説の邦訳も出版されています。
——これも文学のバンドデシネ化なんですね。日本は将棋ブームですが、チェスも好きです!
原 僕はシュテファン・ツヴァイクの原作小説をまだ読んでいないのですが、絵に惹かれて購入しました。原作はシュテファン・ツヴァイクの最晩年の作品のようですね。1941年、物語の語り手が、ニューヨークからブエノスアイレスへと向かう豪華客船に乗るのですが、そこにチェスの世界チャンピオンが乗り合わせる。乗客仲間のひとりが彼に挑戦するのですが、まるで歯が立たない。そこに見知らぬ男が助け船を出し、見事世界チャンピオンを打ち破ってみせる。実はその男は、もうずいぶん長いことチェスの対局をしたことはなかったのですが、ある特殊な事情ゆえにはからずもチェスの名人になった――という話で、その見知らぬ男の過去と、チェスの世界チャンピオンとの対決が語られていきます。原作自体、名作として高く評価されているそうですが、バンドデシネ版も、男が精神的に追い詰められていく過程を、ビジュアル的に見事に表現していて、すばらしい出来です。シュテファン・ツヴァイクの祖国オーストリアということを意識している部分もあるのか、グスタフ・クリムトやエゴン・シーレを思わせる絵で描かれていて、どこか神経質な細い描線と、微妙ににじんだ塗りが、男が置かれた状況と相俟って読者を不安にさせます。
——背景色が物語に沿って変化するのもバンドデシネのひとつの魅力ですね。
原 先ほど、グラフィックノベル、ロマングラフィックという話が出ました。この言葉が指し示すものは、フランス語圏でもかなり幅広いんですが、クラシックなバンドデシネよりずっと小さな判型で、ソフトカバー、厚めのページ数のものに対してよく使われます。こうした本は1990年代以降増えてきて、今や完全に定番化しています。これらの本は、必ずしも小説のバンドデシネ化ではないのですが、かなり小説的な印象があります。今日持ってきたジミー・ボーリューの『感傷的ポルノ的コメディー(Comédie sentimentale pornographique)』もそうした作品のひとつです。作者はカナダのケベック出身です。この作品はデルクールというフランスの出版社から刊行されたのですが、作者は元々ケベックで活動していたそうです。ケベックにも面白そうなバンドデシネ・シーンがありそうですよ。
——カナダにもバンドデシネがあるのですね。
原 物語の舞台はカナダです。ある若い男性映画監督が丘の上の古いホテルを購入し、そこで恋人や友人たちとひと夏を過ごします。彼らは俗世間から完全に隔絶し、そこでデカダンなというか、放埓なというか、そんな日々を送り、他愛ないことで大はしゃぎし、夏が過ぎると別れていきます。筋らしい筋もない作品なんですが、登場人物たちの突飛な行動や些細なやりとりがみずみずしくも楽しく、とても新鮮な印象がありました。ササッと描いたペン画に薄く水彩で着色しましたという感じの絵が、個人的にはすごく好きです。ところどころ絵の描き方が変わるのですが、そのラフな感じもいい。ほんとに大した筋はないのですが、何だかもやもやした、言葉に回収できない独特な魅力があって、思わず文学的と言いたくなります(笑)。
——バンドデシネだから表現できる文学があるのだなあと感じます。
原 最後にマヌエーレ・フィオールの『オルセー変奏(Les Variations d’Orsay)』。マヌエーレ・フィオールはアルトゥル・シュニッツラーの『エルザ嬢』をバンドデシネにしたりしていて、文学のバンドデシネ化も手がけているのですが、この作品には文学の原作があるわけじゃありません。それでも文学的な香りがあって……。というか、単に好きだから持ってきました(笑)。ルーヴル美術館のバンドデシネ・シリーズについてはご存じの方も多いかもしれませんが、オルセー美術館のバンドデシネ・シリーズというのもあって、これはその2冊目です。『秒速5000キロメートル(Cinq mille kilometers par seconde)』で注目された作家で、ずっと翻訳したいと思っているのですが、なかなか叶わなくて悔しい思いをしています。そうこうするうちに作家の伊坂幸太郎さんが『クリスマスを探偵と』(河出書房新社、2017年10月25日発売)の新装版で、直々に挿絵を依頼したらしいと聞いて、「な…何ぃ!?」となっているところです(笑)。
——とてもタイムリーな一冊ですね!
原 このシリーズは、オルセー美術館にゆかりのある画家・作品を作者が好きなように料理するというコンセプトだそうで、この『オルセー変奏』では、特にエドガー・ドガに焦点を当てつつ、印象派勃興時の人物群像が描かれていきます。ダンディーで生意気で皮肉屋で、でも美しいものに憧れてやまないドガの人物像がとても魅力的です。短いページながら、巨匠アングルと青年ドガ、老人になったドガと青年詩人ポール・ヴァレリーなどの人物関係も描かれていて、その点も興味深く、さまざまなことを考えさせます。印象派や当時の画壇、文壇についてもっと深く知りたくなりました。現代と過去を自在に往復し、虚実をないまぜにした構成もすばらしいです。オルセー美術館というテーマを裏切らないハイブローな作品でありつつ、とてもキュートな側面も持った傑作だと思います。絵がいいのは言うまでもありません。
——ありがとうございました。
知れば知るほど、まだまだ知られざるバンドデシネの奥深き世界。今後もこちらのホームページではバンドデシネにまつわる情報を多数掲載予定です。「HARUKI MURAKAMI 9 STORIES」も順次刊行していきます。お楽しみに。