FROM EDITORS「5月のパリ」

5年ぶりのオリジナルアルバム『ラプソディー・ジャパン』を発売した村治佳織のミニコンサートが早稲田のスコットホールで開かれた。赤煉瓦の外観のホールは中に入ると教会のような天井の高さと木の内装が落ち着いた雰囲気だった。神経の病気で長く右手が使えなくなり演奏活動を差し控えていた村治の復帰、そしてアルバム購入者特典としてのライブということもあってこの柔らかな雰囲気はふさわしい。

村治はアルバムのテーマ、ふるさとという言葉の意味を演奏の合間に説明していく。ふるさとはどんな人の心にもあるはず、生まれ育ったところでなくてもどこか大切な場所があると村治は言う。例えば彼女にとって長崎の五島列島だという。「最初は知人に誘われて、今は村の人とも親しくなって何度も通っている」。

この島には学校がなく中学を卒業すると子どもたちは島を出る。村治はその切ない想いを「島の記憶」という曲にした。桟橋の風景、島に残る者はプラカードに言葉を綴り、出航の鐘が鳴ると船の離岸と同時に紙テープが舞う。ロドリーゴのような曲だと思った。村治は島の記憶の断片を懐かしく優しく奏でていく。

最後にアルバムでは弟の奏一との共演だが、今日はソロでスタンリー・マイヤーズ「カヴァティーナ」を静謐に演奏していく。1998年に発表した同名のアルバムから18年、5秒短い4分4秒の演奏にその歳月を感じていった。

僕が村治佳織と会ったのは1999年5月のことだった。村治佳織は21歳になったばかりだった。当時アルベルト・ポンセに師事してフランス・パリのエコールノルマル音楽院への留学も終わろうとする時期のことだった。これからの不安と期待、両手をいっぱいに広げた夢を彼女は語っていった。充実した日々だとパリ生活を村治は述懐した。

「なぜ充実したと言える?」

「自分が起こした行動にはみな目的がある」と彼女は胸張った。その時は小品を聴きたいと思った。でも今は大きな作品を演奏する彼女を聴きたいと思った。例えばロドリードの哀しみを抱いた村治の「アランフェス協奏曲」、今ならロドリーゴの苦しみが豊かに表現できると思った。

スイッチ編集長 新井敏記