FROM EDITORS「世紀のスピーチ」

妹は20歳になって母の実家である酒屋の養子になった。母は6人兄姉だが誰も実家を継ぐ者がいなかったのだ。最初は婿取りをめざしていたのか、戸籍上だけではなく、妹は見合いの時にも一人っ子だと言った。僕の両親も不思議と反対もしなかった。むしろ一人っ子政策の計画を練ったのは両親だったのかもしれない。兄がいますと言うと、何をやっているのですか? どこに住んでいるのですか? といろいろ問われるのを恐れたのかもしれない。一籍二鳥、結局酒屋は働いていた者に権利を譲り、妹が酒屋を営むことはなかった。

妹の縁談は結婚までトントン拍子に進んで、式当日となった。出席して僕ははじめて自分の立場を知った。両親と同じテーブルについたのはいいけれど、親族代表で挨拶をしろと突然司会者が僕の傍らでささやいた。司会をつとめるのは僕の年上の従兄弟だ。

「僕、スピーチしなくていいでしょう」

「変なことはいわないように」

従兄弟は取りつく島はなかった。従兄弟は上機嫌な様子で耳元で再び念を押す。

「言うなよ」

あ、脅しだと思った。もはやいやだとはいえなかった。従兄弟は水戸線上で不良でならした人だった。妙な緊張感が走った。何を言うか、言わざるべきか見当もつかず、わけもわからずドキドキした。僕はスピーチに立った。

「僕は今東京にいてヨシエと離れて暮らしています」妹と言うと支障が出ると思い、彼女の名前を言った。いったんその名を口にすると、さまざまな思いが突然に去来していった。

僕が田舎から上京して10年近くの歳月が流れていた。妹は地元の女子校、僕は私立で電車で1時間も離れた町まで通っていた。だから10代半ばより妹と共通の思い出は少なかったが、さて彼女の長所を新しく親戚になる新郎の家族に伝えなくてはならないという義務感がわいた。

「ヨシエは優しい性格です」思いがけない言葉が口をついた。だから僕はあわてて「とても几帳面です」と続けた。

小学校1年のとき、同級生の女の子の家に誘われたことがあった。家にあるオジギソウを見せると言うのだ。触ると細いシダ葉状の葉がゆっくりとお辞儀をするように閉じられる植物を見に行く。わくわくする。近くの河原で待ち合わせをした。当時4歳だったヨシエがついてきていた。なんだか急に邪魔になって僕は全速力で駆け出してヨシエをその河原に置いてきぼりをくらわした。家に帰ると母親に夏みかんを思いっきりぶつけられた。その1つが左目にあたった。目がつぶれる! 目をしばつかせ僕が言うと、母は「自業自得」と怒鳴りながらもう1つ額に投げつけた。左目を強く抑えると瞼の奥にオジギソウのピンクの花が見えた。大学生のとき、高校生だったヨシエのお年玉を借りてそのままだったことを思い出した。すぐ返すと言ったがとうに時効は過ぎていた。スピーチを終えてテーブルに戻ると母がむせび泣きをしていた。なぜ泣くのかよくわからないでポカーンとしていると母のすぐ上の姉である大阪のおばさんが母のもとに近づいてこう言った。

「エッチャン、とっちゃんよかったね。ようやく陽のあたるところ歩けるね。ほんとに悪かったんだから」

「ほんとだよ、なんど学校から呼び出されたかわからないんだから」

「よかったね」とおばさんはもらい泣きをした。

とっちゃんとは僕の愛称。としのりだから近所のみんなにはそう呼ばれてきた。しかしなぜ僕はよかったのか、よくわからないでいた。ここで泣けないのは僕1人だった。この日僕はどこかオジギソウのように身体を沈めて座っていたにちがいない。

スイッチ編集長 新井敏記